オンライン授業/ヨーロッパの戦争と文明
第25回(7月15日・木曜3限)
/ナチス・ドイツとホロコースト          
(※画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込み(画面の更新)をすると表示されると思います)


今回は第二次世界大戦における、ナチス・ドイツによるホロコーストについてです。
画像も少し生々しいものが出てきますので、注意して下さい。

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【ヒトラー関連年表】
1889年  アドルフ・ヒトラー生まれる(4月20日)。
1907年   ウィーン美術アカデミーに不合格(9月)。
1918年  第1次世界大戦終結(上等兵として従軍)。
1919年頃  ドイツ労働者党に入党。頭角を現し始める。
1920年  党名を「国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP/ナチ党)」へと改名。
1923年  ミュンヘンにて州右派勢力によって結成されたドイツ闘争連盟が
      クーデター未遂事件を起こすが失敗。ヒトラーら首謀者は逮捕。
1926年  党内で「指導者ヒトラー」による独裁体制が確立。
1929年  世界恐慌始まる(10月24日、アメリカのウォール街での株価暴落)。
1930年  ドイツ国会選挙でナチ党が得票率をのばす。
1932年  国会選挙でナチ党は第1党となる(7月)。
1933年  ナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)党首アドルフ・ヒトラー、
      ドイツ首相となる(1月)。
      ナチ党以外の政党を禁止される(7月)。
      ドイツ、国際連盟脱退(10月)。
1934年  ナチ党内部の敵対勢力を粛正(6月)
      ヒトラー、ドイツ総統となる(8月、ドイツ第3帝国の成立)。
1935年  ドイツ、再軍備宣言(3月)。
1936年  ヴェルサイユ条約とロカルノ条約に反して非武装地帯ラインラントへ進駐(3月)。
1937年  ドイツ・イタリア・日本の三国防共協定成立。
1938年  オーストリアを併合(3月)。
      チェコスロヴァキアのズデーテン地方を併合(9月、ミュンヘン会談にて)
1939年  ポーランドに侵攻(9月1日)。第2次世界大戦開始。
      ソ連、ポーランドに侵攻(9月)
1940年  オランダ・ベルギーに侵攻(5月10日)。両国はドイツに降伏。
      ドイツ、マジノ線を迂回してフランスに侵攻(5月10日)。
      ドイツ軍、パリに無血入城(6月14日)。
      フランス、ドイツに降伏(6月17日)、コンピエーニュで休戦協定(6月22日)。
      ペタン元帥首班のヴィシー政権成立。
1941年  ドイツ、ソ連への攻撃開始(6月22日)。
1944年  連合軍によるノルマンディー上陸作戦(6月6日)
1944年  連合軍、パリを解放(8月25日)。
1945年  米・英・ソ連の三首脳によるヤルタ会談(2月)。戦後処理などを話し合う。
1945年  ベルリンでヒトラー自殺(4月30日)。
      ベルリン陥落(5月2日)。ドイツ無条件降伏(5月7日)。
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ヒトラーの生涯をたどり始めると、それだけで大変な時間がかかってしまいます。
また第二次世界大戦におけるドイツの戦いについても同じです。
以下では、「戦争」における戦いとは直接は関係しませんが、
ヒトラーおよびナチスの反ユダヤ主義とその結果引き起こされた「ホロコースト」について
その概略を述べていくことにしたいと思います。


1.反ユダヤ主義                           
ドイツに限らずヨーロッパでは、古代以来ユダヤ人に対する反感がことあるごとに喚起され、
反ユダヤ主義によって引き起こされるユダヤ人虐殺が繰り返されてきました。
国によって、時代によって、その激しさはさまざまですが、
反ユダヤ主義とユダヤ人弾圧・虐殺の歴史はとても長く続いてきました。

これにはいろいろな理由が挙げられるのてすが、最もポピュラーなものとされるのは、
イエス・キリストが処刑される引き金となったのが、
「ユダ」による密告・裏切りであったというものです。
しかし2000年も前のユダという一人の男の行為によって、
その後、大量の弾圧や虐殺が繰り広げられてきたというのは、
われわれ日本人にとってはなかなか想像できない話です。
そもそもイエス・キリスト自身がユダヤ人、あるいはユダヤ社会の中から出てきた人物でありました。

したがって、キリスト教が成立する時代から(イエス・キリストが登場する前から)、
ユダヤ社会の外においてはすでに反ユダヤ主義があった、つまりユダヤ人は外から嫌われていた、
ということなのかも知れません。
それはなぜなのか、ということもまた難しい問題ですが、
ひとつには彼らの有名な「選民思想」があるようです。
自分たちだけが神に選ばれ、自分たちだけが救われるのだという思想は、
非常に閉じられたコミュニティーを形成します。
そして自分たち以外の宗教や民族に対する無関心、あるいは優越感となって現れます。
ユダヤ人以外の人々には「自分たちがユダヤ人からそういうふうに見られている」
という意識を植え付けます。
また、嫌われているからこそ就ける仕事も少なくなり、仕方なく金貸しなどの金融業に携わると、
それがまた嫌われる原因にもなります。
堂々巡りの悪循環ですね。

いずれにせよ、古代以来、中世を通じて、そして近代になっても
ヨーロッパ社会には、ユダヤ人嫌いや反ユダヤ主義というものが普通に広がっていました。
宗教(キリスト教)の世界は言うに及ばず、政治・経済の分野、そして文化・芸術の世界にまで
普通に広く染み渡っていました。

例えば、ドイツの有名な作曲家
リヒャルト・ヴァーグナー(ワーグナー、1813-1883年)などは、
「音楽におけるユダヤ性」(1850年)という悪名高い論文を書き、その中で、
模倣ばかりしているユダヤ人の音楽は単なる商品・嗜好品に堕落していると攻撃しました。
そしてまたユダヤ人による社会の支配は、金と権力に結びついたものだと言っています。
すばらしい楽劇などの作品を残した人物が、同時に反ユダヤ主義にまみれていたのです。
繰り返しですが、これはなにもヴァーグナーに限ったことではなかったのです。
当時のヨーロッパ社会に広く行き渡っていた反ユダヤ主義というものを、
ヴァーグナーもまた共有していたに過ぎません。
ただし、後にナチスはこのヴァーグナーの音楽を、
自分たちの権力高揚のために利用することになります。

作曲家リヒャルト・ヴァーグナー


2.ヒトラーの反ユダヤ主義                       
ヒトラーがいつ反ユダヤ主義思想を身につけたのかと言うことは、はっきりとは分かりません。
ドイツ労働者党に入党したあとの1920年の演説では「寄生動物であるユダヤ人は殺す以外にない」
といったことを言い放っています。
ヒトラーはその一方で、極端なアーリア人至上主義、
簡単に言えばヨーロッパの白人至上主義を掲げます。
彼の著書でドイツでも大変に売れた『わが闘争』の中で
「アーリア民族の人種的優越」を主張しています。
中でもドイツ民族こそが世界で最も優秀で、世界を支配すべき民族だと信じて疑いません。
日独伊三国同盟を結ぶことになる日本人についても、かなり侮蔑的な考えを抱いていたようです。
とにかく、こうして人種的な差別を政治的にフルに利用して、支持を広げていったのでした。
故意に敵を作り上げて、それと戦う自分の姿は立派で美しいと思わせるやり方は、
第一次世界大戦で敗北したドイツの一般民衆の心を強く引きつけました。
ことさらに敵を作り上げて、それに立ち向かう自分の姿をアピールするというやり方は、
何もヒトラーだけではありません。   
今の日本の政治家にも、時々見られるものですね。

ちなみに
「ユダヤ人」の定義というのは、とても難しいとされています。
つまり「ユダヤ人」とうのは、単純な人種的な概念ではないのです。
アジア人や黒人が白人から区別されたりするのと同じように
ヨーロッパ人や白人から「ユダヤ人」を単純に区別することはできません。
よく使われるのは、ユダヤ人とは「ユダヤ教を信仰している者」だという定義です。
これだと、例えば皆さんのような日本人でもユダヤ教を信ずれば「ユダヤ人」ということなります。
実際、ナチスにおいても「両親・祖父母のうち一人でもユダヤ教を信仰したことがある者」は
ユダヤ人だという規定があります。
しかしそのうち人種的な概念と混じり合っていき、例えば「左耳」の形でユダヤ人かどうかの
判別が出来ると信じられたりするようになります。

アドルフ・ヒトラー


3.ホロコーストの始まりと展開                     
もともとから社会の中に流布していた反ユダヤ主義が、総統ヒトラーのお墨付きを得て、
今や大々的に実行に移されていきます。
最初はユダヤ人をドイツから単に「排除」することが目指されました。
ユダヤ人をドイツからアフリカやその東にあるマダガスカル島に
強制的に移住させようという計画(マダガスカル計画、1940年)もありました。

ナチスの支配下で、ユダヤ人は非ユダヤ人との結婚の制限、財産・職業の制限ないし禁止、
住居や移動の制限、今で言う基本的人権のほとんどすべての権利の剥奪が行われました。
1941年6月の独ソ戦開始の後、ドイツは戦闘で獲得した占領地域のユダヤ人を
組織的に虐殺しました。
それを実行した
銃殺部隊「アインザッツグルッペン」は有名です。
ウクライナの
バビ・ヤールの谷で行われた1941年9月の虐殺では、
たった2日間で3万3800人ものユダヤ人市民が殺されました。

ウクライナ、バビ・ヤールの谷での虐殺(1941年9月)。
銃撃で倒れたユダヤ人女性たちにとどめの銃弾を撃ち込むドイツ兵。




1942年1月には悪名高い
「ヴァンゼー会議」が開かれ、
15名のナチス高官とドイツ政府の上級役人たちが集まって、
それまでも無秩序に行われていたユダヤ人に対する弾圧や殺戮を、
さらにいっそう組織的に計画し、大規模に実施するための作戦が立案されました。
会議を取り仕切ったのは国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将で、
ハインリヒ・ミュラー国家保安本部第IV局(ゲシュタポ)局長や、
国家保安本部第IV局第IV部ユダヤ人担当課長であった
アドルフ・アイヒマンなども参加していました。
ベルリンの西のヴァンゼーで開かれたこの会議は、
ヨーロッパにいるユダヤ人の絶滅を優先事項とし、そのために行政省庁の上層幹部に
強力な権限を与え、国家全体としてユダヤ人問題の「最終的解決」、
つまりユダヤ人の「絶滅」を実行してゆくための計画を立てたのでした。
ヒトラーはこの会議に出席はしていませんし、
彼自身の直接的な命令を証明する決定的な文書資料もないと言われますが、
もはやそんなものはなくとも、いわばヒトラーのお墨付きを得たナチスによる
ユダヤ人絶滅のための巨大なシステムは、今や猛烈な勢いで動き始めたのでした。

ヴァンゼー会議の様子を描いた2001年アメリカ製作のテレビ映画『謀議』(Conspiracy)。


4.強制収容所(絶滅収容所)                     

1942年7月19日、ドイツ占領下のポーランドでは、
親衛隊指導者ヒムラーによる強制移送命令が下され、ワルシャワのゲットー(ゲットーとは、
強制的に押し込められたユダヤ人居住地区)にいたユダヤ人住民30万人が
強制収容所へ移送されました。

ワルシャワのケットーから追い立てられるユダヤ人家族


強制収容所
(concentration camp)または絶滅収容所(Extermination camp)は、
ナチス・ドイツによるホロコーストを語るうえで欠かすことのできないものです。
ドイツがポーランドやハンガリーなどの東ヨーロッパを侵略・占領したあと、
そこにいたユダヤ人住民を次から次へと送り込んでユダヤ人を「処分」していった
収容所としてはベウジェツ、ソビボル、トレブリンカの強制収容所があります。
ナチスは、こうした収容所で組織的にユダヤ人の虐殺を行う作戦を当初は
「ラインハルト作戦」と呼びました。
そしてこの3つの収容所だけで1942年3月から1943年8月までの間に
およそ172万人のユダヤ人が殺されました。
この3つの強制収容所は、ドイツの戦況が悪化しはじめた1943年以降、
順次閉鎖され、隠蔽されることになります。
しかしそれ以外ではアウシュヴィッツ=ビルケナウ、ヘウムノ(マイダネク)、ルブリンなどに
強制収容所が建設されていました(いずれもポーランド)。
ドイツ国内では、ミュンヘンの郊外にあったダッハウ強制収容所が有名です。

アウシュヴィッツ強制収容所


こうした強制収容所(絶滅収容所)では、処刑や人体実験などが日常的に行われ、
さらに飢餓や病気で大量の収容者が死んでいきました。
中でも最も有名なのは、いわゆる
「ガス室」です。
ドイツ兵は「これからシャワーを浴びる」とだまして、
密閉された部屋の中に連行されてきたユダヤ人を詰め込みました。
水の代わりに天井から降り注いだのは、殺虫剤チクロンBでした。
およそ20分くらいでみんな死んだと言われています。
もがき苦しんだ犠牲者たちがひっかいた爪あとがガス室の壁に残っているらしいです。

 
アウシュビッツに残るガス室                            遺体焼却炉


5.悪と野蛮について                          

ナチス・ドイツによって殺された犠牲者は、
ユダヤ人が510万人と言われています。
そのうち
子供は100万~200万人です。
ユダヤ人の他、政治犯、共産主義者、精神病患者、同性愛者、ロマなどが約50万人です。

ドイツという国は、それまでの長い歴史の伝統、すばらしい文化や芸術、
モーツァルトやベートーヴェン、ゲーテやシラーなど、挙げればキリがないほどの
輝かしい学芸の伝統などを持っています。
しかしそうしたすばらしいドイツの誇る文化の伝統を、ヒトラーとナチス・ドイツはぶち壊しました。
数百万人のユダヤ人を殺すことで、いとも簡単にぶち壊したのです。

多くの人が、いったいなぜこんなことが可能だったのか? という疑問を口にしています。
なぜこんな非人間的なことが出来るのか?
これはドイツ人だったから起こったことなのでしょうか?
犠牲者の規模が桁外れに大きいだけの話で、実は戦争においてはどの国にも、
そして誰にでもあることなのではないでしょうか?

もちろんそうだからと言って、それでナチス・ドイツの罪が軽くなるわけではありません。
しかし、このようなはっきりと分かる形で行われた途方もない「野蛮」の影で、
同じように繰り返される「野蛮」の数々を忘れてはいけないと思います。
長い人類の歴史の中で繰り返される弾圧や抑圧、虐殺・殺戮などは枚挙にいとまがありません。
先の太平洋戦争(第二次世界大戦)では、日本軍だっていろいろと残虐な行為を行っています。
いや日本軍だけではありません。連合国軍だってそうです。
そして残虐で野蛮な行為は、歴史の中だけではなく、
世界のあちこちで現在進行形で行われています。

数だけで言えば、例えばヒロシマに落とされた原爆は、
ボタンひとつで数十万の人が死亡・被爆しました。
ナチスのガス室と原爆を単純に並べて議論は出来ないのですが、
それでもいったいどっちがより多く「野蛮」なのだろうと思ってしまいます。
あるいは「より多くの野蛮」というふうに、
「野蛮」に程度の差を付けること自体がおかしな話なのかも知れません。
 
解放されたベルゲン・ベルゼン強制収容所(ドイツ)で発見された死体の山


それでは、これだけの野蛮な蛮行を行ったナチスの連中は、
いったいどんなひどい人間だったのでしょうか?
私たちは、ナチス高官たちが、まるで悪魔のようなひどいやつらだったに違いないと思いがちです。
しかし、例えばドイツ出身で後にアメリカに亡命した
ハンナ・アーレント(1906-1975)という女性哲学者がいるのですが、
彼女は自分自身がユダヤ人であり、戦後アイヒマンの裁判を傍聴します。
アドルフ・アイヒマンは戦争中、数百万人ものユダヤ人の強制収容所への
移送の責任者だったナチス高官で、
敗戦後アルゼンチンに逃亡して生きていたところをイスラエルの諜報機関モサドに捕まり、
イスラエルに連行されて裁判にかけられたのでした。

裁判にかけられたそのアイヒマンの姿を見て、アーレントは驚きます。
悪魔のような極悪人を想像していたのに、実際のアイヒマンは、
アーレントの目には単なる小役人で平凡なつまらない人間としか見えませんでした。
ただ何も考えずに上からの命令に従っただけだとするアイヒマンの姿には、
完全な無思想と、悪の陳腐な凡庸さしかなかったのです。
つまり、あれほどの野蛮をやってのけたのは、結局のところ、
そのへんにいるごく平凡で陳腐な人間たちだったというのです。
しかしそれはそれで実に恐ろしいことだと思います。
誰しもが一歩間違えると、とんでもない野蛮を引き起こしてしまうのです。

「悪の陳腐さ・凡庸さ」という言葉はアーレントの有名な言葉です。
詳しくはアーレントの『エルサレムのアイヒマン』
(大久保和郎訳、みすず書房、新版2017年)
をお読み下さい。
また2012年に映画化もされています。
『ハンナ・アーレント』
(ドイツ・ルクセンブルク・フランス合作)です。
ちなみに、アイヒマンは人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて有罪となり、
1962年5月、死刑判決によって絞首刑に処されました。
   
アーレント『エルサレムのアイヒマン』       映画『ハンナ・アーレント』(2012年)


ナチス・ドイツの野蛮なホロコーストを描いた文学作品、ドラマ、映画などは
この他にも数え上げることが出来ないほどたくさんあります。
最も有名なのは、基本中の基本ですが、
ユダヤ系ドイツ人の少女アンネ・フランクによる
『アンネの日記』(深町眞理子訳、文春文庫、2003年)でしょう。
世界各国で翻訳が出され、ドラマや映画にもなっています。
また、自らの強制収容所経験に基づいて書かれた
ヴィクトール・フランクルの
『夜と霧』(1946年、邦訳の新版は池田香代子訳、
みすず書房、2002年)も有名です。この本もまた世界各国で翻訳が出されています。
同じタイトルの映画『夜と霧』
(1956年、フランス)は、
ドキュメンタリーなので、ぞっとするようなおぞましい実写のシーンの連続です。
  
アンネ・フランク『アンネの日記』        ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』

最近話題になった
『戦場のピアニスト』(2002年、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス合作)は、
カンヌ映画祭で最高賞であるパルムドールを受賞、
アカデミー賞でも主演のエイドリアン・ブロディが主演男優賞を受賞しています。

私が個人的にオススメしたいのは映画
『シンドラーのリスト』(1993年、アメリカ、スティーヴン合作、
スピルバーグ監督)
です。主演はリーアム・ニーソンです。
第66回アカデミー賞では、作品賞をはじめ7部門で受賞しています。

フランスで評価が高いのは
『さよなら子供たち』(1987年、フランス、ルイ・マル監督)です。
1987年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞しています。
地味ですが見た後の余韻が、いろいろな意味でしみじみと残る作品です。

映画『戦場のピアニスト』の1シーン

  
映画『シンドラーのリスト』(1993年)        映画『さよなら子供たち』(1987年)


さて最後に、アイヒマンの
「何も考えずに命令に従っただけ」という言葉について。
この言葉は、これまでも長い歴史の中のさまざまな場面において、
野蛮の実行者たちが言い訳として用いてきた決まり文句です。
先の太平洋戦争の際の日本の指導者たちや軍部の連中が、われ先にと言い放ちました。
それは戦争だけではありません。文字通り、あらゆる場面で使われる決まり文句です。
今でも官僚や政治家や企業の幹部たちは言います。
自分には責任はない、命令に従っただけだ、何も考えずに言われたことをやっただけなのだと。

この言葉で問題なのは、
「何も考えずに」というところです。
人間であれば「考える」ことが必要です。
人間は「考え」なければなりません。
これこそが
「野蛮」から「文明」を救う唯一の道だと思われるのです。
何も考えずに、ただ人の言うことをそのまま信じたり、
上の言うことをそのまま実行したり。

社会で生きていくためには、そりゃあ時にはそういうことも「必要」な場面があるでしょう。
しかしそうした
「無思考」が日常化・常態化すると、
いつの間にかどこからともなく「不正」や時には「悪」が忍び寄ってきます。
それに目をつぶって無思考を決め込むとき、
「野蛮」が現れるのです。
自分の頭でしっかりと考えること、
本当にそれでいいのかと自問すること。
常に物事を批判的な目でとらえ、より良き道を探ろうと努力すること。
これが何よりも人間として重要な思考であり、大切な生き方であると思われるのです。



この「ヨーロッパの戦争と文明」の授業はこれで終了です。
7月19日(月)は授業のアップロードはありません。
以下に告知する「最終レポート」は少し字数が長めなので、
7月19日(月)3限は、そのレポートを作成するための時間とします。


★今回は、最終レポートを提出していただきます★
第21回~第25回の授業の内容について、自分がその中で一番印象に残ったことや、
重要だと思ったことは何か、そしてそこに、できれば自分の意見や感想なども付け加えて、
500字以上~600字くらいまでで書いてメールで提出(送信)して下さい。
★最終レポートなので、これまでの小コメントよりも字数が少し多いです。

ワードなどのファイルを添付するのではなく、
メール本文に直接書いて下さい
メールのタイトルには、必ず授業名、学生証番号、氏名を書いて下さい。例えば次のようにして下さい。
 (例)メールタイトル
戦争と文明/5BPY1234/東海太郎

提出(送信)締切りは、
7月25日(日)の22時までとします。

メールアドレスは、nakagawa@tokai-u.jp です。
「@」の次は、「tokai-u」です。「u-tokai」ではないので注意して下さい。

新型コロナの感染が再拡大しています。
特に「インド変異種」とか「デルタ株」と言われるもの、さらに「デルタ・プラス」などという
ものまで拡大の兆しがあります。
ワクチンの接種も徐々に進んでいるとは言え、まだまだ安心できる状況ではありません。
みなさん、どうか充分気をつけて夏休みを過ごすようにして下さい。


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【本日の授業に関する参考文献】
『歴史群像/No.18/総力特集:ドイツ第三帝国の終焉』学習研究社、1995年4月号。
石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書、2015年。
芝健介『ホロコースト-ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』中公新書、2008年。
田野大輔・柳原伸洋編著『教養のドイツ現代史』ミネルヴァ書房、2016年。
仲正昌樹『悪と全体主義-ハンナ・アーレントから考える』NHK出版新書、2018年。
ハンナ・アーレント『エルサレムのアイヒマン』大久保和郎訳、みすず書房、新版2017年。
ハンナ・アーレント『全体主義の起源1・2』大久保和郎訳、みすず書房、2017年。
J. キャンベル『20世紀の歴史15/第2次世界大戦[上]戦火の舞台』
                     入江昭監修、小林章夫監訳、平凡社、1990年。
J. キャンベル『20世紀の歴史16/第2次世界大戦[下]暮らしの中の総力戦』
                     入江昭監修、小林章夫監訳、平凡社、1990年。
グイド・クノップ『ホロコースト全証言-ナチ虐殺戦の全体像』
                      高木玲・藤島淳一訳、原書房、2004年。
アンネ・フランク『アンネの日記』深町眞理子訳、文春文庫、2003年。
ヴィクトール・フランクル『夜と霧』池田香代子訳、みすず書房、2002年。
ルドルフ・ヘス『アウシュヴィッツ収容所』片岡啓治訳、講談社学術文庫、1999年。
マイケル・ベーレンバウム『ホロコースト全史』石川順子・高橋宏訳、創元社、1996年。
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