オンライン授業/ヨーロッパの戦争と文明
第23回(7月8日・木曜3限)/第一次世界大戦
~大量破壊・大量殺戮の時代の始まり
(※画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込み(画面の更新)をすると表示されると思います)
今回から現代を扱います。
今回は第一次世界大戦、次回からは第二次世界大戦です。

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【年表】(ヨーロッパ戦線のみ)
1914年 サライェヴォ事件発生(6月28日)。
ドイツがロシアに宣戦布告(8月1日)
ドイツとフランス間で戦闘開始(8月3日)
イギリスがドイツに宣戦布告(8月4日)
1914年 タンネンベルクの戦い(8月)。ドイツ軍がロシア軍に大勝。
マルヌの戦い(9月)。西部戦線でドイツ軍の進撃停止。
以後、西部戦線は膠着化。塹壕戦へ。
1916年 ヴェルダンの戦い(2~6月)。西部戦線でのドイツ軍の攻勢が失敗。
ソンムの戦い(7~11月)。ドイツ軍、大打撃を受ける。
1917年 ドイツ海軍、無制限潜水艦作戦開始(2月~)
アメリカの参戦(4月)
ロシア革命(三月革命、十一月革命)により、ロシアの戦線離脱(1918年3月)。
1918年 ドイツ、西部戦線において大攻勢をかけるが失敗。連合国軍の反撃(7~9月)
ドイツ・キールの水兵暴動(11月4日)。ドイツ共和政宣言、臨時政府組織。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、退位・亡命(11月9日)
ドイツ共和国成立(ドイツ革命)。
仏コンピエーニュの森で休戦条約・ドイツの降伏(11月11日)。
第1次世界大戦終結。
1919年 パリ講和会議(1月)。
ヴェルサイユ条約締結(6月28日)。
1920年 国際連盟創設(1月)。
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1.背景
19世紀(1800年代)は、ヨーロッパの列強諸国が、ナショナリズムの高まりの中で、
お互いに政治的・経済的・軍事的に対立を繰り返すという世紀でした。
ナポレオンが失脚した後、フランスの地位は低下し、
それに変わって台頭してきたのがドイツでした。
ドイツは中世以来、数多くの小国が分裂したままの状態でしたが、
プロイセンが中心となってまとまり始めます。
プロイセンは宰相ビスマルクのもとで1866年にオーストリアを屈服させ(普墺戦争)、
さらに1870年のフランス・プロイセン戦争(普仏戦争)でフランスに勝利し、
1871年にドイツ帝国を成立させます。
この時の皇帝はヴィルヘルム1世でしたが、何よりも宰相ビスマルクが
国力強化に努め、外交ではフランスを孤立させるための「ビスマルク体制」を取りました。

ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム1世 ビスマルク
20世紀に入ると、フランスだけを孤立させるという「ビスマルク体制」は崩壊します。
ドイツの拡大を警戒するイギリス・フランス・ロシアが「三国協商」という同盟を結びます。
ドイツはオーストリアやイタリアと「三国同盟」を結びます。
かくして「イギリス・フランス・ロシア」が、「ドイツ・オーストリア」を
包囲する形になりました(イタリアの立場は微妙でした)。
かくして「武装した平和」と呼ばれる緊張状態が
続きます(日本は三国協商と関係を深めました)。

バルカン半島ではスラヴ系住民の多いボスニア・ヘルツェゴヴィナ2州の帰属をめぐって、
セルビアとオーストリアとが対立していました。
セルビアの背後にはロシアが(パン=スラヴ主義)、
オーストリアの背後にはドイツが(パン=ゲルマン主義)それぞれ控えていました。
さらにロシアは三国協商国、ドイツは三国同盟国でした。
この頃のヨーロッパの国際関係は、すべてが複雑に結び付き、絡まり合っているという感じです。
どこかで何かが発火したら、たちどころに火が燃え広がるという「一触即発」状態です。

そしてその危機が現実のものとなります。
1914年6月28日、オーストリア皇太子フランツ=フェルディナンド夫妻が
ボスニア州の首都サライェヴォを訪問した際に、
セルビアの一大学生に暗殺されるという事件が起きました。
これを機にオーストリアがセルビアに宣戦し、連鎖的にお互いの同盟国が開戦するに至ります。
こうして第1次世界大戦が始まったのでした。

オーストリア皇太子フランツ=フェルディナンド夫妻 暗殺犯逮捕の瞬間
2.開戦
ドイツは、地理的にも東のロシア、西のフランスの間にはさまれています。
このロシア方面の戦線を「東部戦線」、フランス側の戦線を「西部戦線」と言います。
以下では、もっぱらこの「西部戦線」についてお話しします。

◆シュリーフェン・プラン
ドイツ参謀総長シュリーフェンは、もしも開戦となったら、東からロシア、西からフランスと、
東西両方から攻撃を受けることを予想します。
そこでまず最初に西部戦線においてフランスを全力で攻撃して勝利し、
早期に対フランス戦争を終結させておき、その後、今度は東に反転して東部戦線において
ロシアを全力で撃滅しようと考えました。
彼が考えた「シュリーフェン・プラン」は、西部戦線において、
フランス軍主力がいるドイツ・フランス国境地帯を避けて、
ドイツ軍主力がまず北から中立国のオランダとベルギーに侵攻します。
そして反時計回りに左旋回してフランス北部の制圧を進め、
独仏国境にいるフランス軍主力をはさみ撃ちにして包囲し、
これを殲滅しようとするものでした。
ベルギーへの侵攻からフランス軍主力の撃滅まで、およそ1ヶ月半ほどと見積もられました。

シュリーフェン・プラン(ウィキペディアより) ドイツ軍参謀総長シュリーフェン
ただ、この「シュリーフェン・プラン」では、反時計回りにぐるりと旋回する部隊は、
外側に行けば行くほど、たいへんに長い距離を、
しかもかなりのスピードで移動しなければなりません。
特に一番外側を回るドイツ第1軍は、行軍距離が長すぎて、補給が困難になると
予想されました。
しかもぐるりと回る際にも、各地でフランス側の抵抗が予想され、
そんなに素早く移動はできないと思われました。
なので、シュリーフェンの後に参謀総長となったモルトケは、プランを少し変更します。
第1軍は、旋回する半径を小さくし、英仏海峡手前でまっすぐ南に下りて、
パリの東のマルヌ川に到達するようにしました。
◆ベルギー侵攻
1914年8月2日、ドイツはモルトケによって修正された「シュリーフェン・プラン」に基づいて、
まず中立国ベルギーに対して無条件通過権を要求しました。
ベルギーはこれを拒絶しますが、ドイツ軍は8月4日午前8時、
リエージュ東方において国境を突破してベルギーとルクセンブルクへ侵攻しました。
ベルギー軍はリエージュの戦い(8月5日 - 8月16日)で防戦を試みたものの、
質・量ともに勝るドイツ軍に圧倒されます。
しかしベルギー軍はリエージュ要塞で少なくとも2日間ドイツ軍を足止めにし、
さらに鉄道トンネルや橋梁を爆破してドイツ軍の進撃を遅らせました。
これはドイツにとって大きな誤算であったと言われています。
またドイツによる中立国侵犯はイギリスに連合国側に立った参戦を
決断させるということになりました。
さらにロシア軍の動員(兵員を集めて軍備を整えること)が、
ドイツによる事前の予想よりも早く、
ロシア軍は東からドイツに向けて攻撃を始めます。
したがってドイツは、東部戦線にも兵力を回さなければならなくなり、
西部戦線での戦力不足に悩まされ続けることとなりました。
3.経過
◆マルヌの戦い(1914年9月)
ドイツ軍はそれでもベルギーを突破してフランスに侵攻してきます。
ドイツ軍は兵力不足のためパリを外側から反時計回りで左旋回できず、
パリの東側を南下します。
フランス軍は、怒濤のようなドイツ軍の南下に押されつつも、
パリから東へと流れている「マルヌ川」のラインでドイツ軍の進撃をくい止め、
逆にドイツ軍をその北の「エーヌ川」ラインまで押し返します。
下の地図の赤い線が「マルヌ川」、青い線が「エーヌ川」です。
グリーンの矢印はドイツ軍、青紫がフランス軍です。

(ウインター『20世紀の歴史13/第1次世界大戦・上』より)
この「マルヌの戦い」では、パリから前線に兵士を大量に運ぶために、
民間のタクシーを使って史上空前の兵士のピストン輸送が行われたことが有名です。

タクシーによる兵士のピストン輸送(パリ)

マルヌの戦いで使われたタクシー マルヌの戦いの戦死者たち
(パリ・アンヴァリッド軍事博物館、2011.2.26)
◆ヴェルダンの戦いとソンムの戦い
マルヌの戦いの後は、ドイツ軍とフランス軍の間で、
陣地や塹壕の奪い合いが延々と続くことになります(塹壕戦については後述)。

(ウインター『20世紀の歴史13/第1次世界大戦・上』より)
ヴェルダンの戦い(1916年2~12月)は、ドイツ軍が猛烈な砲撃とともに
フランス東部のヴェルダンにあった要塞群に攻撃を仕掛け、
2月28日までに、その中核であったドォーモン要塞その他を占領します。
しかしフランス軍司令官ペタン将軍が兵力の増強を行い、8月から攻勢に出て
12月にはドイツ軍に占領された全地域を再び取り戻しました。
ペタン将軍は「ヴェルダンの英雄」と呼ばれるようになりました。
ただ、死傷者はドイツ軍34万、フランス軍36万で、双方とも甚大な損害を出しただけで、
結局は終わったのでした。

ヴェルダンの戦い
ヴェルダンとともに悲惨なものとなったソンムの戦い(1916年7月~11月)は、
イギリス軍を主力とした連合国側からの攻勢が失敗した戦いでした。
第一次世界大戦における最大の戦いとも言われ、機関銃や戦車などが次々に投入されました。
数日間にわたる砲撃の後、7月1日に歩兵による前進攻撃が行われましたが、ドイツ軍の守りも堅く、
結局イギリス軍はこの日だけで戦死約1万9千、戦傷5万7千、計6万の死傷者を出し、
戦闘1日の被害としては大戦中で最悪なものとなりました。
その後、ソンムでは3ヶ月にわたって双方の攻撃が繰り返され、11月初めには膠着状態となりました。
ソンムではイギリス軍49万8千、フランス軍19万5千、ドイツ軍42万人という
膨大な損害を出したにもかかわらず、英仏側がたった11キロ前進しただけに終わりました。

ソンムの戦いでのイギリス軍
4.ドイツ軍の最終攻勢と連合国軍の反撃、終戦
1918年3月21日、ドイツ軍は膠着した局面打開のため、西部戦線において大々的な攻勢に出ました。
「1918年春季攻勢」とか「ミヒャエル作戦」などと呼ばれます。
ドイツ軍は8日間の戦闘で65キロの前進し、一気にパリの東方およそ60キロのところまで
到達するとともに、5月にはついにパリが砲撃の射程圏内に入りました。
ドイツは1915年から敵国・中立国の区別なく攻撃する
という「無制限潜水艦作戦」を行っていましたが、
一時中断の後、1917年2月から再開します。
これがきっかけとなって1918年5月、アメリカ軍(総兵力210万)がドイツに宣戦布告し
参戦します。
そしてこの年の夏までに毎月30万人の兵士がアメリカからヨーロッパへと
送られることとなりました。
1918年9月にはジョン・パーシング麾下のアメリカ軍50万以上が投入され、
戦況は一方的に連合国側に有利に展開するようになりました。
ドイツでは敗戦の雰囲気が濃厚となります。
キールではドイツ海軍の水平たちが、他の兵士や労働者とともに
反乱を起こすという事件も起こっています(1918年11月3日)。
1918年11月9日、ベルリンにおいて皇帝ヴィルヘルム2世が退位、ドイツ帝国は崩壊し、
ドイツの共和国宣言が行われました(ワイマール共和国)。
ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命しました。
1918年11月11日、パリ郊外のコンピエーニュの森に置かれた列車(食堂車)の車内において、
ドイツと連合軍との休戦協定が署名されました。
第一次世界大戦はドイツの敗北という形で終わったのでした。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(在位1888-1918) 映画『偽りの忠誠-ナチスが愛した女』(2017年)で
クリストファー・プラマー演じるヴィルヘルム2世
5.結果と意義
第一次世界大戦の結果と意義については、多くのことが語られていますが、
主なものだけを並べると以下のようになります。
1.「大量殺戮と大量破壊」の時代が始まりました。
機関銃、大型長距離砲、戦車、戦闘機、毒ガスなどの新型兵器が次々に投入され、
それまでの戦争とは比べものにならないくらい大量の兵士が戦死しました。
戦場の前線だけではなく、後方の一般市街地・一般市民も攻撃と破壊の対象となりました。
第一次世界大戦では、兵士(戦闘員)だけでも、
戦死者は900万、非戦闘員の死者は1,000万、負傷者は2,200万と推定されています。
国別ではドイツ177万、オーストリア120万、イギリス91万、フランス136万、
ロシア170万、イタリア65万、アメリカ13万でした。
2.「機関銃」の登場によって、そのすさまじい弾幕を避けるため「塹壕戦」が主流となり、
戦争は膠着化・長期化することになりました。
この結果、大戦参加国は国民経済を総動員する国家総力戦を強いられることとなり、
それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害がもたらされたのでした。
3.戦争は、どの国においても莫大な資源と国家経済の消耗、膨大な死者を生み出し、疲弊しました。
4.1920年にアメリカのウィルソン大統領の提唱により、人類史上初の国際平和機構である
「国際連盟」が設立されました。
5.第一次大戦後、1929年の世界恐慌から世界的な経済危機が起こり、
共産主義・社会主義が勢力を得ましたが、同時にイタリアやドイツでは
ファシズム(ドイツではナチズム)が台頭しました。
特に第一次大戦で重い賠償と過酷な軍備制限を受けたドイツでアドルフ・ヒトラーの登場を許し、
第一次大戦以上の悲惨な被害をもたらす第二次世界大戦が再び繰り返されることになりました。
6.ヨーロッパ文明に対する悲観的な将来観も広がりました。
例えばドイツの思想家シュペングラーはその著書『西洋の没落』(1918-1922)で、
もはや西洋文明は終末に向けて没落していくしかないのだと主張しました。
6.塹壕戦と新兵器
◆機関銃
なんと言っても、第一次世界大戦を象徴する言葉は「機関銃」と「塹壕戦」でした。
機関銃は、それまでの単発式の銃に比べて、短時間でたくさんの弾丸を連続発射しました。
西洋世界で初めて戦争に使用されたのは、アメリカの南北戦争(1861-1865年)でした。
その後いろいろな方式の機関銃が開発されますが、試行錯誤をへて、
第一次世界大戦で大々的に使用されるようになりました。

機関銃(アメリカ軍) 機関銃(ドイツ軍)
◆塹壕
飛んでくる機関銃の弾幕を避けるために、兵士たちは「塹壕」を掘り、
陣地を構築してそこにこもり、戦線はしばしば膠着状態に陥りました。
兵士たちは塹壕から飛び出して一斉に突撃を敢行するのですが、
しかしその突撃も敵が撃つ打つ機関銃によってなぎ倒されることになりました。
敵・味方が何キロにもわたる塹壕を掘り、それが時には敵の塹壕の裏側にまで
回り込むなどということも起きました。
塹壕を1キロ前進させるために、何百人もの兵士が犠牲となりました。
塹壕は、悪天候の場合には泥だらけとなり、兵士たちは水浸しになりながら、
何時間も、いや何日間も雨のように降り注ぐ敵の大砲の砲弾に耐えなければなりませんでした。
死んだ兵士の遺体はしばしば塹壕の中に放置され、それが腐敗し、
衛生上の深刻な問題も引き起こしました。
要するに、塹壕は「地獄」そのものだったのです。

イギリス軍の塹壕(ソンム)
◆戦車
塹壕戦において、敵の機関銃の脅威を突破するために戦車が誕生しました。
敵陣地・塹壕・鉄条網を突破し、歩兵進撃を支援することが主要任務でした。
世界初の近代的戦車はイギリス製の「マークI」です。
キャタピラーが車体の横面(側面)全体を回る形の菱形の戦車でした。
1916年9月15日のソンムの戦いで始めて戦線に投入されました。
戦場で鉄条網を越えてこちらに進んでくる戦車を見たドイツ軍の兵士たちは、
動く鋼鉄の塊を見て度肝を抜かれ、恐ろしさからパニックに陥ったそうです。
戦車の中の環境は劣悪だったと言われています。
それでも一定の威力を発揮し、この後、各国でさまざまな戦車が開発されていきます。

イギリス軍の戦車「マークⅠ」 ドイツ軍の戦車「A7V」
◆毒ガス
1915年4月24日~5月5日のイーペル戦線で、
ドイツ軍はフランス軍に対して大々的に塩素ガスを使用しました。
この戦いでは5700本のボンベに詰められた150~300トンの塩素が放出され、
フランス軍は局地的にパニックに陥りました。
5000名もの兵士が数分で死亡したとも言われています。
これによって化学兵器というものの脅威が世界的に知られるようになりました。
イギリス・フランス軍では防護手段としてガスマスクを用い、
毒ガス攻撃はあまり成果をあげなくなります。
しかしこれ以降も、独仏英米の4ヶ国では化学系の毒ガスが生産され続けていきました。

フランス軍による毒ガス攻撃(ソンム) ドイツ軍からの毒ガス攻撃を受けるイギリス軍(ソンム)

毒ガスの被害を受けたイギリス兵。失明したものも少なくなかった。
◆航空機(飛行機)
飛行機は、最初は偵察用として用いられました。
そのうち、敵味方のパイロットがお互いにピストルで撃ち合うようになり、
ほどなく飛行機に機関銃が搭載されるようになります。
1915年から飛行を始めたドイツ軍の「フォッカー E.III」(最大速度は時速140 km)は、
ドイツが初めて「戦闘機」として設計した単葉機でした。
前方にあるプロペラに銃弾が当たらないようにするための
同調式機銃発射装置を世界で初めて装備しました。
その後、敵地の上空まで飛んでいって爆弾を落とす「爆撃機」も誕生しました。
しかし、航空機(つまり空軍)が本格的に威力を発揮するのは、
第二次世界大戦からになります。
ドイツ軍の「フォッカー E. III」 戦死したイギリス軍パイロット(1917年)
第一次世界大戦によって、人間は「大量破壊と大量殺戮」の時代に入りました。
機関銃の引き金を引くだけで、50メートル先、100メートル先の敵の兵士たちが、
20人、30人とバタバタと倒れていきます。
大砲も大型化の一途をたどり、巨大な長距離砲の威力はすさまじいものでした。
最も大きなもののひとつは108キロの砲弾を、
なんと130キロ先の目標に撃ち込むことができました
(ちなみに新宿~小田原は約82キロ、JRだと東海道線で東京~沼津が126キロです)。
戦車、毒ガス、航空機と兵器はますます進歩します。
人間の文明の進歩は、人間性の野蛮さの増大でもありました。
文明が進歩すればするほど、野蛮の程度も大きくなっていきます。
文明と野蛮は比例します。
その極地が、核兵器です。
ボタンひとつで何百万もの人間を消滅させることができるのです。
次回は、その第二次世界大戦を扱います。
第一次世界大戦。ずらりと並べられた砲と機関銃。
| 今回は、小レポートやその他の提出物はありません。 |
※第25回が終わったところで最終レポートがあります。
| 次回は、7月12日(月)の午前中(11~12時頃)に、第24回目の授業内容を このサイトにアップします。 http://wars.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。 |
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【本日の授業に関する参考文献】
『時空旅人・第1次世界大戦開戦100年・大量殺戮は我々人類に何をもたらしたか?』
三栄書房、2014年11月号』。
『歴史群像/図説・第一次世界大戦(上)1914-16』学習研究社、2008年2月。
『歴史群像/図説・第一次世界大戦(下)1916-18』学習研究社、2008年4月。
別宮暖朗『第一次大戦陸戦史』並木書房、2014年。
水島圭吾「第一次世界大戦の戦闘機」『歴史群像/No.11』学習研究社、1994年2月。
山上正太郎『第一次世界大戦 忘れられた戦争』講談社学術文庫、2010年。
J.M.・ウィンター『20世紀の歴史13/第1次世界大戦[上]政治家と将軍の戦争』
猪口邦子監修、小林章夫監訳、平凡社、1990年。
J.M.・ウィンター『20世紀の歴史14/第1次世界大戦[下]兵士と市民の戦争』
猪口邦子監修、深田甫監訳、平凡社、1990年。
ジョン・エリス『機関銃の社会史』越智道雄訳、平凡社、1993年。
A.J.P.テイラー『目で見る戦史・第一次世界大戦』倉田稔訳、新評論、1980年。
BEURIER, Joëlle, Images et violence 1914-1918, Nouveau Monde éditions, 2007.
DESFOSSÉS, Yves, et al., L'archéologie de la Grande Guerre, Ouest-France, 2008.
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