オンライン授業/ヨーロッパの戦争と文明
第21回(7月1日・木曜3限)/ナポレオンの生涯/その4
ロシア遠征、1度目の退位とエルバ島への流刑
(※画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込み(画面の更新)をすると表示されると思います)

アンヴァリッド(ナポレオンの墓がある)
今回は、ドイツ・ポーランド戦役からナポレオンが敗北を重ねるロシア遠征、
そして1度目の皇帝退位とエルバ島への流刑についてです。
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【年表】
1806年 7月、ライン連邦結成
9月、第4次対仏大同盟(イギリス、ロシア、プロイセン)
10月~ドイツ・ポーランド戦役(~1807年)
(ザーフェルト、イエナ、アウエルシュテット、フリートラントの戦いなど)
11月21日、大陸封鎖令
1808年 スペインの反乱(スペイン独立戦争)
1809年 第5次対仏大同盟(イギリス、オーストリア、スペイン、ポルトガル他)
1812年 ロシア遠征
1813年 ドイツ戦役
1814年 フランス戦役(1~3月)
ナポレオン退位(4月2日)、エルバ島に到着(5月4日)
1815年 ナポレオン、エルバ島を脱出(2月26日)、パリに帰還(3月20日)
ワーテルローの戦い(6月18日)
ナポレオン、セント・ヘレナ島に流刑(10月15日)
1821年 ナポレオン死去(5月5日)
1840年 ナポレオンの遺骸がパリに戻り、アンヴァリッドに安置
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1.ドイツ・ポーランド戦役(1806~1807年)
前回扱った、1805年12月のアウステルリッツの戦いでの大勝利によって、
フランスのドイツ方面に対する覇権が強化されます。
ナポレオンは、フランスとプロイセン、オーストリアとの間に
「ライン連邦」(ライン同盟)を結成します。
ドイツは中世以来、小さな領邦国家や都市、教会領などがモザイクのように集まっていて、
まだ「ドイツ」という正式な統一国家はありませんでした。
ナポレオンが作った「ライン連邦」は、40以上のの王国・大公国・大公領などの寄せ集めで、
もちろんフランスの保護下に置かれました。

(グーグルマップより作成)
この状況を自国への脅威と感じたのが、プロイセン(プロシア)でした。
民衆の間でも反フランス感情が高まり、
1806年9月、第4次対仏大同盟(イギリス、ロシア、プロイセン)を結びます。
ナポレオンはプロイセンと開戦し、以下のように戦いを進め、これらにすべて勝利して
最終的にプロイセンを屈服させました。
ザーフェルトの戦い(1806年10月10日)
イエナの戦い(1806年10月14日)
アウエルシュテットの戦い(1806年10月14日)→プロイセン軍に圧勝
ベルリン入城(1806年10月27日)
マグデブルク要塞陥落(1806年11月08日)

イエナの戦いで親衛隊を閲兵するナポレオン/オラース・ヴェルネ(1836年)
プロイセンに勝利したものの、さらに東からロシア軍が、
プロイセン軍の残存部隊とともに向かってきました。
このロシア軍との戦いは、もっぱらプロイセンとロシアの間のポーランドで行われました。
アイラウの戦い(1807年2月8日)
ダンチヒ占領(1807年5月24-25日)
フリートラントの戦い(1807年6月14日)→ロシア軍に圧勝
1807年7月7日、フランスとロシアはティルジット条約を締結し、一時的な協調関係に入りました。
2.スペインの反乱と第5次対仏大同盟
1808年4月、ナポレオンはスペイン国王フェルナンド7世を廃位し、
兄のジョセフ・ボナパルトを新国王につけました。
これに反発する反フランスの暴動・反乱がスペイン各地で起こります。
1808年5月2~3日、マドリードで起こった暴動を、ミュラ元帥が弾圧し、虐殺を行いました。
この時のフランス軍の残虐行為を描いたゴヤの絵が有名です(下の絵)。
この弾圧が火に油をそそぐ形となり、蜂起はスペイン全土に拡大しました。
このスペインの反乱はその後も続き、最終的には1814年にフランスはスペインから撤退しました。

ゴヤ「マドリード、1808年5月3日(プリンシペ・ピオの丘での虐殺)」1814年
スペインで苦しむフランスを見て、オーストリアはまたまたフランスに対して反旗を翻します。
1809年4月9日、オーストリアはイギリス、スペイン、
ポルトガルなどと第5次対仏大同盟を結びます。
フランス軍は、アーベンスベルク(4月20日)、ランツフート(4月21日)、
エクミュール(4月22日)、エーベルスベルク(5月3日)、ヴァグラムの戦い(1809年7月6日)
などでオーストリア軍に勝利し、7月12日に休戦協定を結び、
再びオーストリアを屈服させました。
(ただし、1809年5月22日のエスリンクの戦いでは、
ナポレオンはいったんオーストリア軍に敗北しています。)
1809年12月15日、ナポレオンは子供が出来ないということを理由に、
皇后ジョゼフィーヌと離婚しました。
1810年3月27日、オーストリア皇女マリー・ルイーズが
ナポレオンと結婚するためにパリのナポレオンのもとにやって来ます。
明らかに政略結婚ですね。
この結婚によって、事あるごとにフランスに対抗してきた
オーストリアとの関係を協調的なものにしようとしたのです。
気の毒なのは離婚させられたジョゼフィーヌですね。
でも離婚後も亡くなるまでパリ郊外のマルメゾン宮殿で余生を静かに過ごしました。
ちなみにナポレオンが亡くなる際の最後の言葉は「ジョゼフィーヌ……」だったそうです。
新しい皇后マリー・ルイーズとナポレオン2世
一方、新しくナポレオンの妃となったマリー・ルイーズは男子を産みます。
上の絵(↑)は、生まれた息子を抱くマリー・ルイーズです。
この息子ナポレオン2世は、ローマ王となりますが、1814年にナポレオンが最初の退位をすると
母マリー・ルイーズと共にオーストリアに帰ります。
しかし残念なことに1832年7月22日、ウィーンのシェーンブルン宮殿で
病気のため21歳で亡くなりました。
マリー・ルイーズは、ナポレオン失脚後、オーストリアの貴族と再婚しました。
その夫が死んだ後、また別の男性と再婚しています。
3.ロシア遠征(1812年)
1810年頃になると、ロシアとフランスの関係が悪化しました。
フランスの支配権拡張主義が、ロシアにとっては非常な脅威と映っていたのです。
ロシアとの決着をつける必要を感じていたナポレオンは、ロシア遠征を決定します。
以下、おおよその経過を記しておきます。
-1812年5月9日、ナポレオンは今のドイツ東部のドレスデンに入る。
5月29日には、ロシアに向かうフランス大陸軍を指揮するため、ドレスデンを発つ。
-1812年6月21日、フランスはロシアに宣戦布告。
6月22日、50万を越えるナポレオン軍はニーメン川を渡って、東進を開始。
-7月28日にヴィテブスク、8月18日にスモレンスクを占領。
-9月7日、ボロディノの戦い(モスクワ川の戦い)で大損害を出しながらもロシア軍に勝利。
-9月14日、モスクワ占領(モスクワはもぬけの殻だった)。
-9月15日~20日、モスクワで大火発生。市街の9割が焼けたとも言われる。
-10月19日、約1ヶ月の滞在の後、ナポレオンは10万の軍とともにモスクワから撤退開始。
-11月9日、ナポレオンはスモレンスクに着く。
-11月14日、フランス軍本隊がスモレンスクを離れ始める。
-11月25日~28日、ベレジナ川の渡河。ロシア軍の攻撃で被害多数。
-12月13日、フランス軍がニーメン川(カウナス)までたどり着く。
-12月18日、ナポレオン、パリのテュイルリー宮殿に到着。

モスクワから撤退するナポレオン(Adolphe Northen )
このロシア遠征は、ものの見事な大失敗に終わりました。
ロシアに侵入した約70万の大陸軍のうち、ナポレオンは40万を置き去りにし、
そのうち10万が捕虜になりました。
ロシア遠征における死者の総数は38万とも言われます。
それまでのナポレオンの戦歴をすべて帳消しにするくらいの大敗北です。
ナポレオンは広大なロシアの大地と、極寒のロシアの冬を甘く見ていたのです。
特にモスクワからの撤退の悲惨さは、後の世まで長く語り継がれるものとなりました。
雪と寒さ、疲労と飢え、そしてロシア軍のゲリラ的な猛追撃、これらすべてに襲われたのです。
あるロシア兵の証言は次の通りです。
「私はひとりのフランス人捕虜が20ルーブルで農民たちに売り飛ばされるのを見たが、
農民たちは捕虜に大鍋の熱湯をかけてから、とがった棒で生きながら串刺しにした。
なんというひどいことを! おお、人間のすることだろうか! 嘆かずにはいられまい。
ロシアの女たちは捕虜や畑どろぼうが住居のところを通りかかると、
斧を振り上げて彼らを殺すのである。
ある居酒屋のそばを通ったとき、なかをのぞくと、
すっぱだかの死体がうず高く積み上げられていた。
生きている者もあり、たがいにかさなるようにして戦友の肉を食べながら、
野獣さながらに苦痛で泣きわめいていた。
おお、人間らしさよ! どこへかくれてしまったのだ?」
(ロシア兵士ボリス・ユクスキュルの記述。長塚隆二『ナポレオン』下巻、
文藝春秋社、1996年、436-437頁)
また、次はフランス軍のある軍曹の証言です。
「12月5日、われわれは路上に上級将校たちの死体が積み重なっているのを見た。
彼らの体には汚れた毛皮や焦げた外套がぼろ布のように張りついていた。
その無惨な光景のなかを、生きのこった将校たちが木の枝をつえにして、
よろよろと歩いていた。
彼らのひげや髪は凍りついて真っ白くなっていた。
また歩けなくなった将校たちが、死体の山にうずもれながら、
うつろな目で助けを求めていた。
しかし2週間前までは彼らの指揮下にあった部下たちも、
もはや彼らに見向きすることはない。
たとえ将校でも、歩けない者にはただ死が待っているだけなのだ。
見渡す限りに無数の死体が転がり、路上も野営地も、
まるで戦闘のあとの戦場のようだった。」
(ある軍曹の証言。ティエリー・レンツ『ナポレオンの生涯』
福井憲彦監修、創元社、1999年、115頁)

この地図は、ナポレオンのロシア遠征の進路を表しています。
赤線は往路(行き)、青線は復路(帰り)です。
地図の中の青い矢印のところに「ヴィリニュス」(今のリトアニア)という街があります。
この街で、ロシア遠征に敗れて悲惨な撤退をしたフランス兵の遺体が
大量に発掘されています(↓下の写真)。

フランス兵士が身につけていたもの
(SIGNOLI, Michel et al., dirs., Les oubliés de la retraite de Russie, Vilna 1812-Vilnius 2002.)
ナポレオンのロシア遠征の教訓を生かすことなく、同じような過ちを繰り返した人物がいます。
ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーです。
ヒトラーの命令でドイツ軍は1941年からソ連に侵攻します。
しかしやはりロシアの過酷な冬に悩まされ、
スターリングラード攻防戦をへて、1943年には東部戦線で大きな犠牲を出して敗北しました。
4.退位とエルバ島への流刑
悲惨なロシア遠征でのナポレオンの敗北のあと、
イギリス、ロシア、プロイセン、オーストリアなどは
一斉にフランスに対して立ち上がり、1813年のドイツ戦役、1814年のフランス戦役をへて、
とうとうパリを占領しました。
1814年4月13日、ナポレオンは皇帝からの退位を受け入れ、
4月20日、フォンテーヌブロー城において歴戦の兵士たちに別れを告げ、
5月4日、地中海の「エルバ島」(イタリア半島とコルシカ島の間にある島)に流刑となりました。
入れ替わりにフランス革命で処刑された国王ルイ16世の弟ルイがバリに入り、
国王ルイ18世となりました。

フォンテーヌブローのナポレオン1世-1814年(Paul Delaroche) フォンテーヌブローの別れ
本日はここまでです。
次回はエルバ島脱出とワーテルローの戦い、そしてナポレオンの死です。
| 今回は、小コメントやその他の提出物はありません。 |
※第25回が終わったところで最終レポートがあります。
| 次回は、7月5日(月)の午前中(11~12時頃)に、第22回目の授業内容を このサイトにアップします。 http://wars.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。 |
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【本日の授業に関する参考文献】
『週刊100人・第6号/ナポレオン・ボナパルト』デアゴスティーニ、2003年7月。
『図録/大ナポレオン展・戴冠式190年記念-英雄の生涯と軌跡』東京富士美術館、1993年。
『歴史群像/No.17/総力特集:ナポレオン・ワーテルローの戦い・1815』
学習研究社、1995年2月号。
『歴史群像/No.48/ナポレオン・戦争編・覇権樹立と帝政の崩壊』学習研究社、1996年11月。
『歴史群像/No.106/検証・ナポレオン戦役1812・ロシア遠征』
学研パブリッシング、2011年4月号。
『歴史群像グラフィック戦史シリーズ/戦略・戦術・兵器事典3/ヨーロッパ近代編』
学習研究社、1995年10月。
『別冊歴史読本・特別増刊/総集編・大ナポレオン百科』新人物往来社、1993年12月。
『歴史読本・特別増刊/フランス革命とナポレオン』新人物往来社、1989年7月。
『歴史読本ワールド/特集:ナポレオン』新人物往来社、1990年9月。
志垣嘉夫編『世界の戦争7/ナポレオンの戦争-戦争の天才児・その戦略と生涯』
講談社、1984年。
柴田三千雄『フランス史10講』岩波新書、2006年。
高村忠成『ナポレオン入門-1世の栄光と3世の挑戦』レグルス文庫、第三文明社、2008年。
柘植久慶『ナポレオンの戦場』原書房、1988年。
長塚隆二『ナポレオン・上巻・人心掌握の天才』文春文庫、1996年。
長塚隆二『ナポレオン・下巻・覇者専横の末路』文春文庫、1996年。
松村劭『ナポレオン戦争全史』原書房、2006年。
松嶌明男『図説・ナポレオン-戦争と政治・フランスの独裁者が描いた軌跡』
河出書房新社、2016年。
ジェフリー・エリス『ナポレオン帝国』杉本淑彦・中山俊訳、岩波書店、2008年。
ローラン・ジョフラン『ナポレオンの戦役』渡辺格訳、中央公論社、2011年。
ロジェ・デュフレス『ナポレオンの生涯』安達正勝訳、文庫クセジュ、白水社、2004年。
フランソワ・ヴィゴ=ルシヨン『ナポレオン戦線従軍記』瀧川好庸訳、中公文庫、1988年。
J. P. ベルト『ナポレオン年代記』瓜生洋一ほか訳、日本評論社、2001年。
ルードウィッヒ、E.『ナポレオン伝』金沢誠訳、角川文庫、1966年。
ジョルジュ・ルノートル『ナポレオン秘話』大塚幸男訳、白水社、1991年。
ティエリー・レンツ『「知の再発見」双書84/ナポレオンの生涯』
福井憲彦監修、遠藤ゆかり訳、創元社、1999年。
Anonyme, Warerloo, Éditions THILL s.a., Bruxelles, sans date.
BERNARD, Gilles et LACHAUX, Gérard, Waterloo, Les reliques,
Histoire & Collections, 2005.
GARNIER, Jacques, Atlas Napoléon, Soteca Napoléon 1er Éditions, 2006.
GATES, David, The Napoleonic Wars 1803-1815, Pimlico, 2003.
HOWARTH, David, Waterloo, A Guide to the Battlefield, Pitkin, 1992.
HUMBERT & DUMARCHE, Le Tombeau de Napoléon, l'Hôtel des Invalides,
La Goélette, 1990.
Les Collections de l'Histoire, no.20, 2003-06,
Napoléon, l'Homme qui a changé le Monde.
Musée national du château de Fontainebleau, Napoléon à Fontainebleau, RMN, 2003.
Napoléon 1er, no.27, 2004-07・08, La bataille de Waterloo.
ROTHENBERG, Gunther E., Les guerres napoléoniennes 1796-1815,
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SIGNOLI, Michel et al., dirs., Les oubliés de la retraite de Russie, Vilna 1812-Vilnius 2002,
Historiques Teissèdre, 2008.
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