オンライン授業/ヨーロッパの戦争と文明
第22回(7月5日・月曜3限)/ナポレオンの生涯/その5
ワーテルローでの敗戦とセント・ヘレナ島への流刑、そして死
(※画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込み(画面の更新)をすると表示されると思います)
今回は、エルバ島を脱出したあとのいわゆる「百日天下」、
そしてワーテルローの戦いの敗北、晩年と死、
さらに死後の「ナポレオン伝説」などについて扱います。
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【年表】
1815年 ナポレオン、エルバ島を脱出(2月26日)、パリに帰還(3月20日)
ワーテルローの戦い(6月18日)
ナポレオン、セント・ヘレナ島に流刑(10月15日)
1821年 ナポレオン死去(5月5日)
1840年 ナポレオンの遺骸がパリに戻り、アンヴァリッドに安置
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1.百日天下とワーテルローの戦い
ナポレオン失脚後、ヨーロッパの列強国はウィーン会議(1814年9月~)を開きます。
会議はオーストリア首相のメッテルニヒ主導で進められましたが、各国の利害が一致せず、
「会議は踊れど進まず」とまで言われました。
新しいフランス国王ルイ18世が国民に不人気であるということを知ったナポレオンは、
1815年2月26日、エルバ島を脱出します。
彼は途中でフランス軍部隊を次々に味方につけ、パリに向かいます。
3月19日、国王ルイ18世はパリから逃れ、
翌3月20日、ナポレオンがパリのチュイルリー宮殿に入り、再び帝位につきました。
百日天下の始まりです。

ナポレオンのエルバ島脱出 ルイ18世
◆復権したナポレオンを攻撃するため、ウエリントン公爵率いるイギリス・オランダ軍と
ブリュッハー将軍率いるプロイセン軍が東からフランスに攻め寄せてきます。
1815年6月12日、その動きを迎え撃つため、ナポレオンは北部方面軍を率いてパリを発ちます。

イギリスのウエリントン公爵 プロイセンのブリュッハー将軍
それぞれの軍の総兵力は次の通りです。
イギリス・オランダ軍ほか連合軍 6万8千 + プロイセン軍 4万8千 計11万6千
フランス軍 7万2千
当初、イギリス・オランダ軍はベルギーのブリュッセルに、プロイセン軍はナミュールにいました。
イギリス・オランダ軍はブリュッセルからキャトル・ブラに南下、
プロイセン軍はナミュールから西進してリニーに移動し、
まもなく合流という位置まで来たのです。
この2つの軍が合流すると11万6千となり、7万2千のフランス軍では
いくらナポレオンと言えども太刀打ちできません。
そこでナポレオンは、イギリス・オランダ軍とプロイセン軍が合流する前に、
それぞれを別個に撃破しようと考えました。

ナポレオンは、フランス軍を二手に分け、ネイ元帥の部隊を西側にいたイギリス軍へ、
自分は東側にいたプロイセン軍に向かいます。
6月16日、ナポレオンはプロイセン軍をリニーで破り、プロイセン軍は北へ退却します。
ナポレオンはグルーシー元帥の部隊に、退却したプロイセン軍の追撃を命じます(↓下の地図)。
一方、イギリス軍も北のブリュッセル方面に退き、
ワーテルロー村のすぐ南のサン=ジャン高地に布陣しました。

プロイセン軍の追撃はグルーシー師団に任せて、ナポレオンはフランス軍主力とともに、
今度はワーテルローにいるイギリス軍に向かいます。
6月18日の昼頃からイギリス軍とナポレオン軍の戦いが始まります。
下の図(↓)はワーテルロー部分の拡大です。左がワーテルローで、
赤が北に布陣するイギリス・オランダ軍、青が南からそれを攻撃するナポレオンのフランス軍です。
図の右の方には東からプロイセン軍がやって来ようとしています(これは憶えておいて下さい)。

戦いは、イギリス・オランダ軍とフランス軍の間にある
いくつかの農場の激しい取り合いとなりました。
東からウーグモン農場、ラ・エ=サント農場、ラ・パプロット農場です。
15時くらいまではそうした農場の攻防戦が続きます。

ウーグモン農場を奪おうとするフランス軍と、これを守るイギリス軍
ところが、そうするうちに東からプロイセン軍4万8千が接近してきます。
15時半、ナポレオンは中央のラ・エ=サント農場を奪い取るようにネイ元帥に命令します。
ネイ元帥は、約5千の騎兵部隊で突撃しました。
しかしそれを迎え撃ったのは、およそ500人のイギリス軍歩兵からなる
20個の四角い「方陣」でした。
銃剣の槍ぶすまの中に、馬は突っ込んでいけません。
ミュラの騎兵部隊は、逆に方陣からの激しい銃撃(ライフル銃および大砲)の前に
なすすべもなく壊滅しました。

イギリス軍の方陣
下の写真(↓)は、ワーテルローの戦いで、ほぼ水平に発射された大砲の弾丸に貫通された
フランス竜騎兵のよろいです。
まさに直撃です。大砲の弾が前から当たって後ろ(背中)へ見事に貫通しています。
この兵士は一瞬のうちに即死ですね。
いったい何歳くらいのどんな兵士だったのでしょうか?

砲弾に貫通されたフランス竜騎兵の鎧(パリ・アンヴァリッド軍事博物館、2003.9.4)
19時半頃、ナポレオンはいよいよ、近衛部隊(歩兵6500)を投入して総攻撃を命じます。
この時点で、ウエリントン率いるイギリス軍は、敗北しかけていました。
ところが20時30分頃、フランス軍右翼に
ブリュッハー率いるプロイセン軍4万8千が突然現れたのです。
正面のイギリス軍と戦っていたフランス軍は、真横からいきなり大軍に襲われたわけです。

ROTHENBERG, Gunther E., Les guerres napoléoniennes 1796-1815.
フランス軍はイギリス軍とプロイセン軍の両方から攻められて壊滅しました。
ナポレオンは、古参の近衛部隊に守られて戦場を脱出しました。
ワーテルローでのフランス軍の戦死傷者は
少なくとも2万6千、多く見積もって4万8千、捕虜1万。
イギリス・オランダ・プロイセン連合軍の戦死傷者は2万1千~3万4千でした。
ワーテルローの戦いでの敗因は、さまざまに言われていますが、主には次のようなものです。
・ナポレオンの健康上の不調と、そこから来る迅速で的確な判断のにぶり。
・前夜から雨により、地面がぬかるみ、砲兵の展開が遅れて、充分な配置をとれなかった。
・ネイ元帥の騎兵突撃が無謀であったこと。歩兵の支援を伴っていなかったこと。
・プロイセン軍の動きの把握に失敗した。グルーシー元帥がプロイセン軍補足に失敗したこと。
・ナポレオンは、ロシア・オーストリア連合軍がここに合流する前に、
イギリス・プロイセン連合軍をたたいておかなければならなかった。
時間的に急いで焦りがあった。

上の絵は、勝利したワーテルローの戦場で合流して握手をするプロイセンのブリュッハー将軍と
イギリスのウエリントンです。
プロイセンは後にドイツ帝国を統一し、その中核となります。
およそ100年後の1914年に始まる第一次世界大戦では、
今度はイギリス・フランスが連合して、ドイツ帝国と血みどろの戦いを繰り広げます。
またさらにその30年後の第二次世界大戦でもやはりドイツ対イギリス・フランスの戦いとなります。
まさかそんなことになろうとは、ワーテルローで握手している二人は想像もしなかったでしょうね。
昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵、です。

ワーテルローでの激戦地のひとつ、ラ・エ=サント農場(グーグル・ストリートビュー)
2.セント・ヘレナ島への流刑と死
さてナポレオンは、ワーテルローで敗北したあと、
6月21日、パリに帰還し、翌22日、二度目の退位となりました。
ナポレオンは、いったんはイギリスに亡命しようかとも考えますが、
そんなに簡単に話は進みません。
長年の宿敵であるナポレオンを、イギリスがそう簡単には受け入れるわけがありませんでした。
結局、1815年10月15日、流刑と決まったナポレオンは、今度はセント・ヘレナ島に向かいます。
セント・ヘレナ島は南太平洋の絶海の孤島です。
今度ばかりは簡単には脱出など出来ません。

セント・ヘレナ島のナポレオン(イメージ)

ナポレオンが流刑地で住んだ家(ロングウッド・ハウス)
ナポレオンはこの島で回顧録などを口述しながら6年間を過ごします。
1821年5月5日、ナポレオンはこの死まで流刑のまま51歳で死にました。
イギリス側による暗殺説も唱えられています。
いずれにせよ、戦いに明け暮れた英雄の孤独な死でした。
そしてナポレオンは、この地で伝説の人となったのでした。

ナポレオンの死
ナポレオンの功罪は、あげればキリがありません。
まず「功」では、
ヨーロッパの封建的な古い旧体制に打撃を与えました。
行政、司法、経済などといった国家の諸制度、民法典などの法律制度を整えました。
バカロレア(大学入学資格検定試験)などの教育制度も創設しました。
しかし一方で「罪」では、
たとえ反封建体制の打破を進めるフランス革命の理念を看板にしていたとしても、
ヨーロッパのあちこちの国を、あるいはエジプトなどの非ヨーロッパの国をも
半ば侵略戦争のような形で攻めました。
またナポレオン戦争によって、フランスだけで約100万人が犠牲となりました。
ヨーロッパ全体を見たら、もっと犠牲者は増えます。
こうしたことによって、1815年以降のフランスの国力低下を招きました。
3.ナポレオンの遺骸のパリ帰還
1840年10月、ナポレオンの遺骸がセント・ヘレナ島の墓から掘り出され、
およそ1ヶ月半かけてフランスに運ばれました。
パリに戻ったナポレオンの遺骸は、アンヴァリッド(廃兵院)に安置されました。
現在は、多くの観光客を集める場所でもあります。

パリ、アンヴァリッド(2003.9.4) ナポレオンの墓(2002.3.14)
英雄ナポレオン崇拝は、その後も続きます。
ナポレオンの栄光をもう一度と望む政治的な考え方を
「ボナパルト主義」(ボナパルティズム)と言います。
ナポレオン3世はそうした動きの中で登場しました。彼はナポレオン1世の甥です。
1870年の普仏戦争(フランスとプロイセンの戦争)で敗北してイギリスに亡命しました。

ナポレオン3世(1808-1873/皇帝在位1852-1870)
今でもボナパルト家は、ナポレオン1世の直系ではありませんが、
しっかりと存続しています。
最も若いのは「ナポレオン7世(または8世)」こと、
ジャン・クリストフ・ナポレオン・ボナパルトで、
ニューヨークやロンドンの証券会社で働いたこともあるそうです。
2019年に、オーストリア皇帝の血を引く女性と結婚しています。
オーストリア皇帝と言えば、ナポレオン1世の長年の宿敵ですね。
なんとも皮肉な話です。
ちなみに彼(ジャン・クリストフ)は今でもフランス皇帝位の正統な請求権者です。
まぁそんなことはあり得ないとは思いますが。
写真(↓)を見てビックリ。顔が「ナポレオン顔」です(笑)。
やはり血は争えないということでしょうか。

ジャン・クリストフ・ナポレオン・ボナパルト 2019年に結婚
| 今回は、小レポートその他の提出物はありません。 |
※第25回が終わったところで最終レポートがあります。
| 次回は、7月8日(木)の午前中(11~12時頃)に、第23回目の授業内容を このサイトにアップします。 http://wars.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。 |
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【本日の授業に関する参考文献】
『週刊100人・第6号/ナポレオン・ボナパルト』デアゴスティーニ、2003年7月。
『図録/大ナポレオン展・戴冠式190年記念-英雄の生涯と軌跡』東京富士美術館、1993年。
『歴史群像/No.17/総力特集:ナポレオン・ワーテルローの戦い・1815』
学習研究社、1995年2月号。
『歴史群像/No.48/ナポレオン・戦争編・覇権樹立と帝政の崩壊』学習研究社、1996年11月。
『歴史群像/No.106/検証・ナポレオン戦役1812・ロシア遠征』
学研パブリッシング、2011年4月号。
『歴史群像グラフィック戦史シリーズ/戦略・戦術・兵器事典3/ヨーロッパ近代編』
学習研究社、1995年10月。
『別冊歴史読本・特別増刊/総集編・大ナポレオン百科』新人物往来社、1993年12月。
『歴史読本・特別増刊/フランス革命とナポレオン』新人物往来社、1989年7月。
『歴史読本ワールド/特集:ナポレオン』新人物往来社、1990年9月。
志垣嘉夫編『世界の戦争7/ナポレオンの戦争-戦争の天才児・その戦略と生涯』
講談社、1984年。
柴田三千雄『フランス史10講』岩波新書、2006年。
高村忠成『ナポレオン入門-1世の栄光と3世の挑戦』レグルス文庫、第三文明社、2008年。
柘植久慶『ナポレオンの戦場』原書房、1988年。
長塚隆二『ナポレオン・上巻・人心掌握の天才』文春文庫、1996年。
長塚隆二『ナポレオン・下巻・覇者専横の末路』文春文庫、1996年。
松村劭『ナポレオン戦争全史』原書房、2006年。
松嶌明男『図説・ナポレオン-戦争と政治・フランスの独裁者が描いた軌跡』
河出書房新社、2016年。
ジェフリー・エリス『ナポレオン帝国』杉本淑彦・中山俊訳、岩波書店、2008年。
ローラン・ジョフラン『ナポレオンの戦役』渡辺格訳、中央公論社、2011年。
ロジェ・デュフレス『ナポレオンの生涯』安達正勝訳、文庫クセジュ、白水社、2004年。
フランソワ・ヴィゴ=ルシヨン『ナポレオン戦線従軍記』瀧川好庸訳、中公文庫、1988年。
J. P. ベルト『ナポレオン年代記』瓜生洋一ほか訳、日本評論社、2001年。
ルードウィッヒ、E.『ナポレオン伝』金沢誠訳、角川文庫、1966年。
ジョルジュ・ルノートル『ナポレオン秘話』大塚幸男訳、白水社、1991年。
ティエリー・レンツ『「知の再発見」双書84/ナポレオンの生涯』
福井憲彦監修、遠藤ゆかり訳、創元社、1999年。
Anonyme, Warerloo, Éditions THILL s.a., Bruxelles, sans date.
BERNARD, Gilles et LACHAUX, Gérard, Waterloo, Les reliques,
Histoire & Collections, 2005.
GARNIER, Jacques, Atlas Napoléon, Soteca Napoléon 1er Éditions, 2006.
GATES, David, The Napoleonic Wars 1803-1815, Pimlico, 2003.
HOWARTH, David, Waterloo, A Guide to the Battlefield, Pitkin, 1992.
HUMBERT & DUMARCHE, Le Tombeau de Napoléon, l'Hôtel des Invalides,
La Goélette, 1990.
Les Collections de l'Histoire, no.20, 2003-06,
Napoléon, l'Homme qui a changé le Monde.
Musée national du château de Fontainebleau, Napoléon à Fontainebleau, RMN, 2003.
Napoléon 1er, no.27, 2004-07・08, La bataille de Waterloo.
ROTHENBERG, Gunther E., Les guerres napoléoniennes 1796-1815, Autrement, 2000.
SIGNOLI, Michel et al., dirs.,
Les oubliés de la retraite de Russie, Vilna 1812-Vilnius 2002,
Historiques Teissèdre, 2008.
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