オンライン授業/ヨーロッパの戦争と文明
第20回(6月28日・月曜3限)
/ナポレオンの生涯/その3       
ウルム・アウステルリッツの戦い               

(※画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込み(画面の更新)をすると表示されると思います)


今回は、ナポレオンが大勝利を収めた
ウルムの戦いアウステルリッツの戦いを扱います。
ともに1805年で、この年はナポレオンの輝かしい栄光の年となります(ただし海軍を除く)。

一番最初にウルム(Ulm)とアウステルリッツ(Austerlitz)の
位置を地図で確認しておきましょう。
ウルムは今のドイツ南部、アウステルリッツは今のチェコ南東部、オーストリアの
ウィーンの少し北にあたります。



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【年表】
1804年 パリのノートル=ダム大聖堂にてフランス皇帝に戴冠(12月2日)。
1805年 8月9日、イギリス・ロシア・オーストリアが第3次対仏大同盟を結ぶ。
1805年 10月19日、ナポレオン、
ウルムにてオーストリア軍に勝利。
1805年 10月21日、トラファルガーの海戦でフランス・スペイン連合艦隊がイギリス艦隊に敗北。
1805年 12月2日、
アウステルリッツの戦いで、ナポレオンはロシア・オーストリア軍に完勝。

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1.ウルムの戦い(1805年10月19日)               
1805年4月11日、一時的に停戦状態にあったイギリスが、ロシアと同盟を結んで
再びフランスに対抗し始めます。
8月にはそこにオーストリアが加わり、
第3次対仏大同盟が成立します。



ナポレオンは、事あるごとにフランスに対抗しようとするイギリスを屈服させようと考えます。
そのために英仏海峡を渡って、イギリスへの直接侵攻を行なう作戦を立てます。

このイギリス本土上陸作戦を遂行すべく、ナポレオンは、
1805年8月、
「大陸軍(la Grande Armée)」7個軍団及びミュラ将軍の騎兵予備軍と近衛部隊、
総計約22万5千を、北フランス・ノルマンディー地方のブーローニュに集結させました。
下の地図の、英仏海峡沿いに並ぶ青い四角がフランスの大陸軍の軍団です。



いよいよナポレオンが英仏海峡を渡ってイギリス本土に侵攻しようとしていた時、
軍団を乗せて英仏海峡を渡るはずのヴィルヌーヴ提督率いるフランス艦隊が
暴風雨を理由にスペインにとどまってしまいました。

1805年9月10日、マック将軍指揮下の7万のオーストリア軍が東からバイエルンに侵攻しました。
上の地図の赤い線がマックのオーストリア軍です。
マックは2万3千のオーストリア軍とともにドイツ南部を西進し、
ウルムに向かいます。
ウルム方面でフランス軍の東進を阻もうと考えました。

南のイタリアには、カール大公(オーストリア皇帝の弟)率いるオーストリア軍がいます。
しかし、それを抑えるために、マッセナ将軍のフランス軍が張り付いています。
またオーストリア北部に5万からなる
ロシア軍(司令官はクトゥーゾフ)がいます。

ナポレオンは、艦隊が来ないためにイギリスへの直接侵攻が難しくなったことを知るや、
英仏海峡沿いに集結していた22万のフランス軍を、
一気に反転させて、東へ向かわせ
東からロシア軍がマックのオーストリア軍と合流する前に、
ウルムにいるマックのオーストリア軍をたたくことにしました。


北フランスと北ドイツにいたフランス軍は、

猛烈なスピードで南ドイツのウルム方面へと機動
します。
ハノーヴァーから第1軍団(ベルナドット)が南下してフランクフルト経由でウルムへ。
ユトレヒトから第2軍団(マルモン)がライン下流域をへて南下し、ウルムへ。
ブレストから第7軍団(オージュロー)も長躯して仏軍南側からウルムへ。



ウルムに立てこもるマックは、東から来るロシア軍を待っていました。
しかしロシア軍がやって来る前に、フランス軍は猛スピードでウルムに到達しました。
フランス軍主力は、東にいるロシア軍を警戒して
時計回りで右旋回し、1805年10月15日、ウルムを完全に包囲してしまったのです。

ウルムのオーストリア軍は、東からのロシア軍の救援もなく、
南からのカール大公軍の援軍もなく、
完全に包囲されて孤立し、
1805年10月19日、
マック将軍が降伏し、
翌日(20日)ナポレオンの前を降伏したオーストリア軍が武器を捨て、
行列を作って進みました(5時間かかった)。

捕虜6万、大砲120門(一説には2000門)、4000~5000頭の軍馬、
42の軍旗(一説には90以上)、将軍30名以上がフランス軍の手に落ちました。

このウルムの戦いは、
行軍しただけで大勝利したと言っても過言ではありません。
フランス軍は、ブーローニュなどから、1日8~10時間、毎日平均して30キロも行軍しました。
武器弾薬や背嚢を持ち、数万の軍団が行軍するスピードとしては破格です。
フランス兵たちは「自分たちの足だけでオーストリア軍に勝利した」と言いました。

そしてまた、フランス軍の幹部たちの若さと頭脳が、
オーストリア軍の古い戦術を圧倒した戦いでもあったのでした。



2.トラファルガーの海戦(1805年10月21日)             
ナポレオンがウルムで大勝利を勝ち取ったちょうど同じ頃、
スペイン南西部のトラファルガー岬の沖で、
ヴィルヌーヴ提督率いるフランス・スペインの連合艦隊が、

ネルソン提督率いるイギリス艦隊
に壊滅的敗北を喫しました。
フランス・スペイン側は、22隻の艦艇を失いました。イギリス側はゼロでした。
ただしイギリス艦隊の司令官ネルソン提督は戦死しました。
ヴィルヌーヴは、捕虜となり、帰国後に自殺しています。

フランスは陸軍はナポレオンのおかげで圧倒的に強いですが、
海軍は全然ダメですね。
イギリスはこの後、ずっと制海権を握り続けることになります。


トラファルガーの海戦


3.アウステルリッツの戦い(1805年12月2日)              

フランス軍はウルムで勝利した勢いのまま、
オーストリアの首都
ウィーンに侵攻しようとしていました。

ウルムで大敗を喫したオーストリア軍は、残存部隊が東へ向かい、
やっと東から来たクトゥーゾフ将軍率いる
ロシア軍と合流し、
ウィーンの北西にあってフランス軍のウィーン侵攻を食い止めようとします。

また南のイタリア方面からカール大公の無傷のオーストリア軍と
ヨハン大公軍が合流して北上してきました。

ナポレオンとしては、イタリアから北上してくるオーストリア軍と、
クトゥーゾフのロシア軍が合流してしまう前に、ロシア軍をたたいておく必要がありました。

フランス軍は、結局1805年11月13日にミュラの部隊が、
そして14日にはナポレオンが
ウィーンに入城します。

敵国の首都ウィーンを抑えたのはいいのですが、ナポレオンが北と南から
挟み撃ちになりつつある状況には変わりありませんでした。
もしも北のロシア軍と南のオーストリア軍が合流したら、19~20万近い兵力になります。
一方、ナポレオンのフランス軍はせいぜい7万5千です。これでは勝負になりません。
なんとしてもロシア軍とオーストリア軍が

合流する前に、ロシア軍を撃滅
しなければなりません。




この図を地図に置き換えると、少し見にくいかも知れませんが、下のようになります。
青い線がナポレオンのフランス軍、赤い線がロシア軍とオーストリア軍です。



この時点で、中立を保っていた
プロイセンが、ナポレオン不利と見てフランスに
宣戦布告しようとする動きを見せます。
しかしナポレオンは外交的な手腕を発揮してプロイセンの介入を遅らせます。

ナポレオンは北から来るロシア軍主力と、オーストリア軍の残存部隊の連合軍9~10万を
大地と渓谷からなる
アウステルリッツに引き込んで殲滅させようと考えました。

そのために、アウステルリッツあたりまで軍を進めたあと、
わざとウィーン方面に退却するように見せかけたり、
ロシア皇帝の使者に、あたかも休戦を望んでいるかのような態度で接したりします。
こうした計略に引っかかって、ロシア軍とオーストリア軍の連合軍は、
イタリア方面から北上してくるカール大公のオーストリア軍の到着を待たずに
アウステルリッツでフランス軍と対決するに至ります。
ナポレオンにとっては、まさしく
「飛んで火に入る夏の虫」というところですね。

なお、このアウステルリッツの戦いには、オーストリア皇帝フランツ1世と
ロシア皇帝アレクサンドル1世、そしてフランス皇帝のナポレオンが参加して戦ったことから
「三帝会戦」とも呼ばれます(ただしロシア皇帝は戦場から離れたところにいた)。





上の図はアウステルリッツにおける、
フランス軍(青)とロシア・オーストリア軍(赤)の配置図です。
ロシア軍は、東側に連なる
プラッツェン台地に北から南へと長く布陣しています。
このプラッツェン台地は、実際はなだらかな丘陵といった感じの地形です。

これに対してナポレオンのフランス軍は、ロシア軍に相対する形でやはり北から南へと、
布陣しています。ナポレオンは中央の西奥にいます。
ここでポイントとなるのは、フランス軍の一番南にいる
ダヴー元帥の第3軍です(上の地図の青い矢印)。
ダヴー軍(1万)は、フランス軍の南北の前線から少し西に奥まったところに
隠れるようにして布陣していました。
ここはプラッツェン台地にいるロシア軍・オーストリア軍からは
見えにくい場所でした。
つまりロシア・オーストリア軍から見ると、
ナポレオンの
南側の右翼は「手薄」に見えたのです。

そこでロシア・オーストリア軍が考えた作戦は、下の図のように、フランス軍の手薄な右翼を
突破して
南側から大きく時計回りに旋回して、フランス軍の背後に回り込む。
そして自軍右翼のロシア近衛軍とバグラチオン将軍の部隊などが西へと前進して、
ナポレオンとフランス軍主力を挟み撃ちにする、というものでした。
もちろんこれはダヴーの第3軍がいないということが大前提の作戦でした。

ロシア・オーストリア軍が想定した作戦計画



◆1805年12月2日、午前7時、ブクスヘウデン将軍率いるロシア軍左翼は、
テルニッツへの進攻を始めました。
ちょうどこの朝は霧が出て、ただせさえ見えにくいダヴー軍を
完全に隠してしまっていました。
テルニッツを攻撃するロシア軍は、ルグラン師団左翼の頑強な抵抗にあい、
なかなかテルニッツを奪うことが出来ません。
一方、ロシア軍中央は、プラッツェン台地を下りて西進し
フランス軍主力(第1軍ほか)と衝突します。



◆午前8時頃、霧の中から出てきたダヴーの第3軍が加わり、ロシア軍の西進を阻み続けます。
なかなかテルニッツが奪えない状況を打開するため、ロシア・オーストリア軍中央から、
テルニッツ攻撃に参加するために
多くの部隊が南に向かいます。
9時頃には、それでもロシア軍はなんとかテルニッツを奪取しかけるところまで押しました。
しかし、多くのロシア軍部隊がテルニッツ方面に南下したため、
プラッツェン台地中央に一時的に
間隙(すき間)が生じてしまったのです。
これこそ
ナポレオンが待っていたチャンスでした。




◆昼頃には、さすがのロシア・オーストリア軍も、
プラッツェン台地中央に生じたこの間隙はマズイと考え、
クトゥーゾフ元帥はプラッツェン台地死守のためにロシア皇帝近衛軍を中心とした
ロシア・オーストリア軍部隊を向かわせます。
この時点で、フランス軍中央のスルト元帥の第4軍がプラッツェン台地に
対して猛攻を加えていましたが、
ナポレオンはさらに自らの
近衛軍(親衛隊)を一気に投入し、
午後2時頃には
完全にプラッツェン台地を占領してしまいました。
かくして、ロシア・オーストリア軍は、
プラッツェン台地の北と南に
分断されてしまったのです。

兵力で自軍に勝る敵を倒すためには、
敵を分断したうえで、各個撃破するという
ナポレオンの戦略に、まんまとハマッてしまったわけですね。





◆台地を制圧したフランス軍は、そのまま
時計回りに右旋回を続け、
南側にいたロシア軍を、ダヴー軍とともに包囲して圧迫しました。
南側のロシア軍は、
包囲・圧迫され、死傷者が続出し壊滅しました。
多くのロシア兵が、氷のはったザッチャン沼(湖)を渡って逃げようとしましたが、
フランス軍の砲撃によってか、あるいはロシア軍の重みによってか、
とにかく
湖の氷が割れて多くが溺死したと言われています。




◆ロシア軍右翼の司令官ブクスヘウデン将軍は、
多くの部下を置き去りにして逃走しました。
北部地域でもロシア・オーストリア連合軍は
なだれを打って潰走しました。
夕方5時には激しい雪と夕闇のため戦闘は終了し、アウステルリッツの戦いは、
ナポレオンの完勝で終わりました。
ロシア・オーストリア連合軍は8万5千の兵力のうち、
戦死者15000、捕虜3万(一説には12000)、大砲180門、軍旗50を失いました。
フランス軍は兵力7万5千のうち、戦死・負傷者8000~9000名でした。
この日はナポレオンが皇帝に戴冠してちょうど1周年にあたっていました。


現在のプラッツェン台地(グーグル、ストリートビュー)  右方向からフランス軍が攻め寄せてきました。


敵から奪った軍旗をナポレオンに献呈するラップ将軍


◆1805年12月4日、
神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は、ナポレオンの軍営を訪れて会見、
12月6日、
休戦協定が結ばれました。
さらに12月26日、オーストリアはプレスブルク条約を結び、
ドイツとイタリアにおける影響力を完全に失い、フランスに多額の賠償金を支払うことになりました。
フランツ2世は、神聖ローマ帝国皇帝を退位。
神聖ローマ帝国はここに崩壊(消滅)しました。
ただしフランツは、オーストリア皇帝フランツ1世としてはその後も君臨し続けました。
 
ナポレオンと会見する神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世       オーストリア皇帝としてはフランツ1世


パリのオーステルリッツ駅。アウステルリッツの戦いでのナポレオンの勝利を記念して命名された。


1805年のウルムおよびアウステルリッツの戦いは、ナポレオンの生涯の中でも
偉大で輝かしい勝利をもたらしたものでした。
ナポレオンの得意とした、
兵力の一点集中と各個撃破のセオリーそのままの戦いでした。

人間の歴史上においても、
最も完璧で偉大なものの中に数えられています。
まさしく英雄ナポレオンの名前を歴史に刻み込んだ戦いでした。
ナポレオンの絶頂期を飾るにふさわしいものです。

この後、ナポレオンは山を転がり落ちるように、敗北を重ねて行くことになります。
それはまたフランス帝国の没落でもありました。


次回は、ナポレオンの転落のきっかけとなった
ロシア遠征(1812年)と皇帝退位などについてです。


★今回は、出席調査を兼ねて、小レポートを提出していただきます★
第15回~第20回の授業の内容について、自分がその中で一番印象に残ったことや、重要だと思ったことは何か、そしてそこに、できれば自分の意見や感想なども付け加えて、300字以上~400字くらいまでで書いてメールで提出(送信)して下さい。
ワードなどのファイルを添付するのではなく、
メール本文に直接書いて下さい
メールのタイトルには、必ず授業名、学生証番号、氏名を書いて下さい。例えば次のようにして下さい。
 (例)メールタイトル
戦争と文明/5BPY1234/東海太郎

提出(送信)締切りは、
7月8日(木)の22時までとします。

メールアドレスは、nakagawa@tokai-u.jp です。
「@」の次は、「tokai-u」です。「u-tokai」ではないので注意して下さい。

※次回は一番最後の第25回の終了後に「最終レポート」を提出(送信)してもらいます。

 次回は、7月1日(木)の午前中(11~12時頃)に、第21回目の授業内容を
 このサイトにアップします。
  
http://wars.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。


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【本日の授業に関する参考文献】

『週刊100人・第6号/ナポレオン・ボナパルト』デアゴスティーニ、2003年7月。
『図録/大ナポレオン展・戴冠式190年記念-英雄の生涯と軌跡』東京富士美術館、1993年。
『歴史群像/No.11/総力特集:アウステルリッツ三帝会戦』学習研究社、1994年2月。
『歴史群像/No.48/ナポレオン・戦争編・覇権樹立と帝政の崩壊』学習研究社、1996年11月。
『歴史群像グラフィック戦史シリーズ/戦略・戦術・兵器事典3/ヨーロッパ近代編』
                             学習研究社、1995年10月。
『別冊歴史読本・特別増刊/総集編・大ナポレオン百科』新人物往来社、1993年12月。
『歴史読本・特別増刊/フランス革命とナポレオン』新人物往来社、1989年7月。
『歴史読本ワールド/特集:ナポレオン』新人物往来社、1990年9月。
有坂純「ナポレオンの第一次イタリア遠征」『歴史群像』第59号、学習研究社、2003年6月。
志垣嘉夫編『世界の戦争7/ナポレオンの戦争-戦争の天才児・その戦略と生涯』
                                講談社、1984年。
高村忠成『ナポレオン入門-1世の栄光と3世の挑戦』レグルス文庫、第三文明社、2008年。
柘植久慶『ナポレオンの戦場』原書房、1988年。
長塚隆二『ナポレオン・上巻・人心掌握の天才』文春文庫、1996年。
長塚隆二『ナポレオン・下巻・覇者専横の末路』文春文庫、1996年。
藤本ひとみ『皇帝ナポレオン(上)』角川書店、2003年。
松村劭『ナポレオン戦争全史』原書房、2006年。
松嶌明男『図説・ナポレオン-戦争と政治・フランスの独裁者が描いた軌跡』
                             河出書房新社、2016年。
ジェフリー・エリス『ナポレオン帝国』杉本淑彦・中山俊訳、岩波書店、2008年。
ローラン・ジョフラン『ナポレオンの戦役』渡辺格訳、中央公論社、2011年。
ロジェ・デュフレス『ナポレオンの生涯』安達正勝訳、文庫クセジュ、白水社、2004年。
フランソワ・ヴィゴ=ルシヨン『ナポレオン戦線従軍記』瀧川好庸訳、中公文庫、1988年。
J. P. ベルト『ナポレオン年代記』瓜生洋一ほか訳、日本評論社、2001年。
ルードウィッヒ、E.『ナポレオン伝』金沢誠訳、角川文庫、1966年。
ジョルジュ・ルノートル『ナポレオン秘話』大塚幸男訳、白水社、1991年。
ティエリー・レンツ『「知の再発見」双書84/ナポレオンの生涯』
                  福井憲彦監修、遠藤ゆかり訳、創元社、1999年。
GARNIER, Jacques, Atlas Napoléon, Soteca Napoléon 1er Éditions, 2006.
GATES, David, The Napoleonic Wars 1803-1815, Pimlico, 2003.
HOURTOULLE, F.-G., Austerlitz, Le soleil de l'Aigle, Histoire & Collections, 2003.
Les Collections de l'Histoire, no.20, 2003-06/Napoléon, l'Homme qui a changé le Monde.
Napoléon 1er, no.22, 2003-09・10/Bonaparte et le siège de Toulon
ROTHENBERG, Gunther E., Les guerres napoléoniennes 1796-1815, Autrement, 2000.
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