オンライン授業/ヨーロッパの戦争と文明
第19回(6月24日・木曜3限)/ナポレオンの生涯/その2
第2次イタリア遠征とフランス皇帝戴冠
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今回は、ナポレオンの第2次イタリア遠征におけるアルプス越え、
そしてその後のフランス皇帝戴冠まで扱います。
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【年表】
1799年 ブリュメール18日のクーデター(11月9日)。総裁政府を倒す。
ボナパルト、第一執政(統領)となる(12月12日)。
1800年 ボナパルトの第2次イタリア遠征。
5月20日、アルプスを越える。
6月10日、マレンゴの戦いでオーストリア軍に勝利。
1802年 ナポレオン、終身執政になる。
1804年 ナポレオン法典発布(3月21日)
12月2日、パリのノートル=ダム大聖堂にてフランス皇帝に戴冠。
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①第2次イタリア遠征とアルプス越え
前回見たように、ナポレオンは1回目のイタリア遠征でオーストリア軍から奪った北イタリアを、
1798年のエジプト遠征の間に奪われてしまいます。
そしてオーストリア、イギリス、ロシアなどは第2次対仏大同盟を結成して
フランスを取り囲んでその拡大を阻止しようとします。
1799年のブリュメール18日のクーデターで総裁政府を倒して
第一執政(第一統領)に選ばれたナポレオンは、
対仏大同盟の中心的存在であるオーストリア軍の脅威をイタリアから排除し、
再び北イタリアをフランスの支配下に置くために、イタリア遠征をもう一度試みるのです。

ナポレオンが北イタリアにいるオーストリア軍を攻めるために選んだ方法は、
アルプスを越えて、オーストリア軍の背後からこれを急襲するという作戦でした。
ちょうどこの頃、北イタリアではマッセナ司令官率いるフランス軍が
ジェノヴァに籠城していました。
アルプス越えは、ジェノヴァを攻囲するオーストリア軍を背後から襲い、
ジェノヴァを救うことを狙ったものでもありました。
この授業でも、第5回(5月28日・木)で扱ったカルタゴの名将ハンニバルが、
カルタゴ軍46000と象37頭と共にアルプスを越え、ローマに大勝しました。
紀元前218年のことです。
それから約2000年後、今度はナポレオンがフランス軍40000を率いて
アルプスを越えるのです。

↑ 青はフランス軍、赤はオーストリア軍。オーストリア軍はジェノヴァを包囲している。
◆1800年5月、ナポレオンは、スイスのジュネーヴに
約40,000(または37000)の軍を集結させました。
5月20日、ナポレオンは4万の兵と、
アルプスにあるグラン・サン・ベルナール峠を越えました。
この峠はスイス・イタリアの国境にあたります。
1964年に峠の少し下に、長さ約6600メートルの
グラン・サン・ベルナール・トンネルが出来ました。
しかし旧道は、今でも細くてうねうねとした急坂の上り道を行かなくてはなりません。
峠の標高は2469mです。
凍結することが年平均265日もある池のほとりに、
グラン・サン・ベルナール・ホスピス(救護院)の簡素な建物があり、
峠を越えようとする旅人に救いの手をさしのべてきました。

グラン・サン・ベルナール峠への上り道と頂上付近(2001.9.3)
ナポレオンが越えた5月は、まだ峠には50~60センチ程度の積雪がありました。
雪道を上り下りするのは人間(兵士)だけではありません。
大量の武器弾薬や食料などの軍事物資、それを運ぶための荷車、馬、
そして何よりも大変だったのは大砲でした。
分解しても荷車に乗せて急坂を登ることは不可能でした。
そこで太い木の幹の内部をくり抜いて、その中に砲身を入れて、
それを馬数匹に引かせて地面を引きずっていく方法が採られました。

ダヴィッド『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』(1801年)
ナポレオン(中央上)の前をアルプスに向けて登っていくフランス軍

大砲の砲身を木の幹の中に入れて引きずり上げる(左上)

グラン・サン・ベルナール峠の救護所で、峠を越えて行くフランス軍を見守るナポレオン(左上に立つ人物)。
◆1800年6月2日、ナポレオンは苦労の末にアルプスを越え、
オーストリア軍の背後に出てミラノとパヴィアを占領しました。
一方ジェノヴァに籠城していたマッセナ率いるフランス軍部隊は
オーストリア軍による攻囲に耐えきれず、6月4日に開城してしまいました。
その後、ナポレオンがアルプスを越えて背後からやって来たことを察知したオーストリア軍主力は
ジェノヴァから移動してトリノに集結しました。司令官はメラスという将軍です。

↑ 赤はオーストリア軍、青はフランス軍。
トリノにいるオーストリア軍は、ミラノにいるナポレオンのフランス軍によって
本国オーストリアとの間を遮断されています。
一方、ナポレオンはトリノのオーストリア軍が本国から切り離されているうちに、
これを撃滅したいと考えました。
かくして、メラス率いるオーストリア軍と、ナポレオン率いるフランス軍は、
トリノとミラノの間のマレンゴで衝突することとなりました。
戦力は、オーストリア軍31,000に対して、フランス軍は23,000と大差がありました。
6月13日の14時頃、オーストリア軍は、フランス軍が占領していたマレンゴの村を奪取、
フランス軍は3kmあまり後退します。
兵力の差はいかんともしがたく、戦場はナポレオンの敗北の様相が濃くなります。
オーストリア軍司令官メラスは、勝利を確信して、
オーストリア皇帝に戦勝報告を書いたと言われています。
しかし夕方17時頃、突然、南に派遣されていたフランス軍のドゥセー将軍の
別働隊5,000が到着し、戦況は一気に逆転しました。

GARNIER, Jacques, Atlas Napoléon, p.30. 赤はオーストリア軍、青はフランス軍。
ドゥセーがオーストリア軍の正面へ突撃し、その右翼をマルモンの砲兵が18門の大砲で砲撃援護し、
さらに左翼からケレルマン将軍の騎兵部隊がオーストリア軍の背後を襲撃します。
オーストリア軍はあっという間に分断され、なだれを打ってマレンゴの西にある
アレッサンドリアの街へと敗走しました。フランス軍はマレンゴを奪還しました。
6月15日、ほとんど大勝利直前であったオーストリア軍の司令官メラスは、結局ナポレオンに降伏。
北イタリアは再びフランスの手に落ちました。
この年の冬、12月3日、フランスのライン方面軍も
ホーエンリンデンの戦い(今のドイツ南部)で勝利します。
オーストリアは戦意を喪失し、フランスとの間でリュネヴィルの講和条約を
結びました(1801年2月9日)。これにより第二次対仏大同盟は崩壊したのでした。

現在のマレンゴの村(Google, Street View)
②フランス皇帝戴冠(1804年12月2日)
第2次イタリア遠征の勝利の後、フランスの内政の整備に取りかかります。
・1800年、フランス銀行(フランス中央銀行)設立。
・1801年、教皇ピウス7世との間で政教条約(政教和約・コンコルダート、7月16日)。
ローマ・カトリック教会と和解。
・1802年、ナポレオン、終身執政となる。
・1802年、レジオン・ドヌール勲章を創設。
・1804年、フランス民法典(ナポレオン法典)を公布。
その他にも、財政・金融・税務・通貨改革、司法制度改革、行政改革、教育改革、交通網の整備などに
精力的に取り組みました。
ナポレオンは単に戦争が得意であっただけではありません。
近代国家フランスの建設を推進した類いまれな政治的手腕の持ち主でもあったのでした。
かくしてナポレオンは皇帝へのプロセスを進めます。
1804年5月18日、フランス元老院はナポレオンがフランス皇帝となったことを宣言しました。
1804年11月6日、人民投票(国民投票、plébiscite)で、帝政の創設とナポレオンに皇帝の地位が
追認されました。賛成3,572,329票、反対2,569票、99.9%が賛成でした。
1804年12月2日、人民投票の結果を受けて、ナポレオン・ボナパルトはパリのノートルダム大聖堂
において戴冠式(即位式)を行い、35歳にしてフランス帝国の皇帝となりました。
下の絵は、ナポレオンの戴冠式を描いたダヴィッドの有名な絵です。
高さ6メートル、横幅10メートルというとても大きな絵です。
パリのルーヴル美術館に展示されています(パリに行くことがあったら、ぜひ見て下さい)。

ダヴィッド『ナポレオン1世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』(1805-07年)
1801年にローマ教会と和解しているので、ナポレオンの皇帝戴冠式には
ローマ教皇ピウス7世が呼ばれ、教皇はナポレオンを「祝福」しました。
これまでヨーロッパでは、国王や皇帝の戴冠式では、
キリスト教会の司教や教皇による「聖別」が行われてきました。
教会によって、いわば「聖なる力」を与えられるわけですね。
そして教会が国王や皇帝の頭に冠を載せてきたのです。
国王や皇帝は、そのようにして教会によって特別な「聖なる存在」「崇高なる存在」となったのです。
つまりそうなるためには、教会(司教や教皇)という存在がどうしても必要だったのです。
逆に言うと、教会がダメだと言えば、少なくとも形の上では公式に、
国王や皇帝になれなかったのです。
このように教会が「聖別」の儀式をしてくれる代わりに、
今度は国王や皇帝は、教会を政治的・軍事的に守護したわけです。
お互いに持ちつ持たれつの関係だったわけですね。
次の左側の絵(↓)は、第14回(7月9日)の授業でも紹介したシャルル7世の
ランス大聖堂での戴冠式の様子です。
ひざまづいたシャルル7世の頭に、キリスト教会の司教が王冠を載せています。
まさしく「戴冠」式です。

シャルル7世の戴冠式(1429年) ナポレオンの戴冠式(1804年)
上の右側の絵は、
ダヴィッド『ナポレオン1世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』のナポレオンの部分の拡大です。
ナポレオンの皇帝戴冠式に呼ばれたローマ教皇ピウス7世は、
ナポレオンに王冠を載せるわけではありません。
ただ単に後ろに座って「祝福」しているだけです。
言わば、単なる「お飾り」ですね。
仮にもフランス革命は、国王や貴族と共に、それと結託していた教会の力も否定しました。
良くも悪くもフランス革命の遺産を引き継いでいるナポレオンは、
国民の「人民投票」によって「皇帝」となったのです。
神の力、教会の力によって皇帝になったわけではありません。
ではナポレオンはどのように「戴冠」したのでしょうか?
なんと彼は、自分の手で自分の頭に皇帝の冠を載せたのです。

ダヴィッドによるナポレオンの戴冠の下絵 映画『キング・オブ・キングス』(2002年)よりナポレオンの戴冠の場面
ナポレオンの妻であるジョゼフィーヌはフランス帝国の皇后となります。
彼女はナポレオンから皇后の冠(宝冠)をかぶせられます。
実年齢は41歳でしたが、ナポレオンはダヴィッドに、
彼女をうんと若く描くように注文をつけています。
右下の写真は、この時ジョゼフィーヌがかぶった宝冠です。
すごいですね。全部ダイヤモンドです。いったい、お値段はいくらくらいするのでしょうか?

皇后ジョゼフィーヌ ジョゼフィーヌの宝冠
ちなみに、さすがに王政を倒した革命の国フランスだからか、
ナポレオンは「国王」にはなりませんでした。
「国王」と「皇帝」の違いは、実はあまりハッキリしません。
ヨーロッパの歴史上、「皇帝」(エンペラー)の方が、
より大きな国を支配する、よりランクの高い称号でした。
複数の国や民族を支配する偉大な統治者というイメージです。
これは古代ローマ帝国の皇帝の伝統を受け継いだものです。
中世の神聖ローマ帝国皇帝がそうですね。
「皇帝」が統治する国を「帝国」(エンパイアー)と呼びます。
ナポレオンが皇帝になったので、フランスは「フランス帝国」となりました。
ナポレオンが戦ったこの頃までのオーストリアも、
別名は皇帝が統治する神聖ローマ帝国(ハプスブルク帝国)です。
映画『スターウォーズ』でも、「皇帝」が支配する「銀河帝国」が出てきましたね。
一方、国民に選ばれた非世襲の行政官が政府を運営する国を、普通は「共和国」と言います。
今のフランスは「フランス共和国」です。
皇帝が支配する国の大きさは、近代以降は実質的にあまり関係なさそうです。
ナポレオンは皇帝ですが、統治するのはフランス一国だけだし、
極東アジアの小さな島国ニッポンを明治時代から元首として統治したのは「天皇」ですが、
これは英語では「エンペラー」すなわち「皇帝」です。
今でも外国では天皇は「日本国皇帝」です。
さてこうして、ナポレオンは人生の坂道を登り詰めていきます。
この後、1805年のアウステルリッツの戦いでの大勝利あたりまでが、栄光に輝く絶頂期です。
これは、ナポレオンだけではなく、フランスという国の絶頂期でもありました。
フランスは、ナポレオンの栄光の後は、戦争で勝利することはもはやなくなります。
ナポレオンが最後ですね。
ただし、文化や芸術の世界では、この国はその後ますます
輝かしい名声を博していくことにはなります。
でもまぁその方が平和でいいと思います。
次回は、ナポレオンの最高にして最後の輝かしい大勝利となった1805年の
アウステルリッツの戦いを取り上げることにします。

ナポレオンを讃えるパリの凱旋門(2001.8.23)
| 今回は、小レポートその他の提出物はありません。 次回は第20回が終わったところで小レポートを予定しています。 |
| 次回は、6月28日(月)の午前中(11~12時頃)に、第20回目の授業内容を このサイトにアップします。 http://wars.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。 |
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【本日の授業に関する参考文献】
『週刊100人・第6号/ナポレオン・ボナパルト』デアゴスティーニ、2003年7月。
『図録/大ナポレオン展・戴冠式190年記念-英雄の生涯と軌跡』東京富士美術館、1993年。
『歴史群像グラフィック戦史シリーズ/戦略・戦術・兵器事典3/ヨーロッパ近代編』
学習研究社、1995年10月。
『別冊歴史読本・特別増刊/総集編・大ナポレオン百科』新人物往来社、1993年12月。
『歴史読本・特別増刊/フランス革命とナポレオン』新人物往来社、1989年7月。
『歴史読本ワールド/特集:ナポレオン』新人物往来社、1990年9月。
有坂純「ナポレオンの第一次イタリア遠征」『歴史群像』第59号、学習研究社、2003年6月。
志垣嘉夫編『世界の戦争7/ナポレオンの戦争-戦争の天才児・その戦略と生涯』
講談社、1984年。
高村忠成『ナポレオン入門-1世の栄光と3世の挑戦』レグルス文庫、第三文明社、2008年。
柘植久慶『ナポレオンの戦場』原書房、1988年。
長塚隆二『ナポレオン・上巻・人心掌握の天才』文春文庫、1996年。
長塚隆二『ナポレオン・下巻・覇者専横の末路』文春文庫、1996年。
藤本ひとみ『皇帝ナポレオン(上)』角川書店、2003年。
松村劭『ナポレオン戦争全史』原書房、2006年。
松嶌明男『図説・ナポレオン-戦争と政治・フランスの独裁者が描いた軌跡』
河出書房新社、2016年。
ジェフリー・エリス『ナポレオン帝国』杉本淑彦・中山俊訳、岩波書店、2008年。
ローラン・ジョフラン『ナポレオンの戦役』渡辺格訳、中央公論社、2011年。
ロジェ・デュフレス『ナポレオンの生涯』安達正勝訳、文庫クセジュ、白水社、2004年。
フランソワ・ヴィゴ=ルシヨン『ナポレオン戦線従軍記』瀧川好庸訳、中公文庫、1988年。
J. P. ベルト『ナポレオン年代記』瓜生洋一ほか訳、日本評論社、2001年。
ルードウィッヒ、E.『ナポレオン伝』金沢誠訳、角川文庫、1966年。
ジョルジュ・ルノートル『ナポレオン秘話』大塚幸男訳、白水社、1991年。
ティエリー・レンツ『「知の再発見」双書84/ナポレオンの生涯』
福井憲彦監修、遠藤ゆかり訳、創元社、1999年。
GARNIER, Jacques, Atlas Napoléon, Soteca Napoléon 1er Éditions, 2006.
Les Collections de l'Histoire, no.20, 2003-06, Napoléon, l'Homme qui a changé le Monde.
Napoléon 1er, no.22, 2003-09・10, Bonaparte et le siège de Toulon
POISSON, Georges, Napoléon Ier et Paris, Tallandier, 2002.
ROTHENBERG, Gunther E., Les guerres napoléoniennes 1796-1815, Autrement, 2000.
TRANIÉ, Jean & CARMIGNIANI, J.C., Napoléon Bonaparte, 2ème campagne d'Italie 1800,
Pygmalion, 1991.
VOLKMANN, Jean-Charles, La généalogie des Bonaparte, Jean-Paul Gisserot, 2001.
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