オンライン授業/ヨーロッパの戦争と文明
第18回(6月21日・月曜3限)
/ナポレオンの生涯/その1          
誕生から少年期、フランス革命とトゥーロン包囲戦まで      

(※画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込み(画面の更新)をすると表示されると思います)


     
      
      第一執政時代のナポレオン・ボナパルト


今回から時代は
近代に入ります。
5回にわたって、ナポレオンの生涯と、彼が戦ったさまざまな戦争について取り上げて行きます。
言うまでもなくナポレオンは、アレクサンドロス大王やローマのカエサルなどと
並び称される歴史上の「英雄」です。しかし彼が行ったことは、
決して良いことばかりではなく、功罪取り混ぜてさまざまな事績を残しました。
この授業では、かなり駆け足になりますが、そうしたナポレオンの生涯をたどっていきます。


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【年表】
1769年 コルシカ島のアジャクシオで生まれる(8月15日)。
1784年 パリの士官学校(École Militaire)に入学。
1789年 フランス革命始まる(7月14日~)。
1793年 トゥーロン軍港のイギリス軍要塞を陥落させる(12月)。
1795年 ヴァンデミエール13日事件で、王党派暴徒を鎮圧(10月5日)。
1796年 第1次イタリア戦争へ出発(3月11日。11月、アルコレの戦いで勝利)。
1798年 エジプト遠征( 5月~10月)。
1799年 ブリュメール18日のクーデター(11月9日)。総裁政府を倒す。
     ボナパルト、第一統領(執政)となる(12月12日)。
1800年 ボナパルトの第2次イタリア遠征。
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①誕生から幼少時まで                          
ナポレオンは、1769年8月15日にコルシカ島の港町アジャクシオで生まれました。
コルシカ島は下の地図にあるように、フランスの南の地中海にある島です。
もともとは、はっきりとフランス王国の領土であったというわけではなく、
ナポレオンが生まれるちょうど1年前に、
国王ルイ15世がコルシカ島のフランス併合を宣言したばかりでした。
都市部は親フランス派が多く、山間部は親イギリス派でした。
  

ちなみに「ナポレオン」というのは、実は名字ではなく名前です。
日本の「徳川家康」だと「家康」の方です。
いつの間にか多くの人が「ナポレオン」を名字のように思っていますが、
名字は「ボナパルト」です。
しかも彼の先祖は16世紀に北イタリアのトスカーナ地方から移住してきた家系です。
なので、コルシカ島にいた頃は「ボナパルト」ではなくイタリア語風に「ブオナパルテ」でした。
名前の方もそうで、もともとは「ナポレオン」ではなく「ナポレオーネ」でした。
なのでこの頃はまだ
「ナポレオーネ・ブオナパルテ」ですね
(以下では「ナポレオン」で統一します)。
ブオナパルテ家は、コルシカの小さな貧乏貴族でした。
父はカルロ=マリア・ブオナパルテ、母はレティチア・ブオナパルテでした。


ナポレオンの生家(Casa Bonaparte/Google Streetview)。今はナポレオン博物館。


母親のレティチアによれば、子供の頃のナポレオンは、学校では一番望みのない子で、
勉強で成績があがり始めるのに時間がかかったそうです。
読書好きだったと同時に、とりわけ算術が得意であったとのことです。
子供たちの戦争ごっこでは、
いつも指揮官役だったといいます。
子供の頃から兵隊になることを夢見るようになっていたようです。
思えば、
末恐ろしい子供ですね。


②陸軍幼年学校からパリの陸軍士官学校時代まで              
ナポレオンの父は、彼をフランスの軍人にするべく、フランス東部のブリエンヌにある
王立陸軍幼年学校に入学させようとします。
しかしナポレオーネはイタリア語の方言であるコルシカ語しか話せなかったので、
フランス語を身につけるために3ヶ月間、ブルゴーニュの
オータン(Autun)という街の
コレージュ(学院)に入ります。
しかしコルシカなまりがなかなか消えなかったそうです。
このコレージュは、今は「リセ・ボナパルト」(ボナパルト高校)となっています。


オータンの「リセ・ボナパルト」(2004.8.6)



1779年5月、フランス東部シャンパーニュ地方の
ブリエンヌ(Brienne-le-Château)にある
陸軍幼年学校に入学しました。
ここは言わば貧乏貴族の子弟のために設立された学校でした。
8歳から入学でき、ナポレオンはこの時10歳でした。
この学校は、規律は厳しかったですが、仮にも貴族の子弟が入る学校なので、
食事の量も多く、生徒には下僕が付いて身の回りの世話をしていたようです。


ブリエンヌの旧王立陸軍幼年学校

ナポレオンは、ここにいる間もやはりフランス語を話すことと書くことは不得意だったようです。
しかし相変わらずの
読書好きで、地理と歴史に興味を持っていました。
また
記憶力が抜群で、数学はきわめて優秀でした。
数学ではいつもトップで、賞を取ったそうです。
数学が得意だというのは、彼の非常に合理主義的な考え方の
基礎になっているのかも知れません。

  
ブリエンヌで読書にふけるナポレオン           ブリエンヌ時代のナポレオン



1784年10月22日、ナポレオンは
パリの陸軍士官学校(École Militaire)に入学しました(15歳)。
選抜によって、この年はブリエンヌから5名が進学したので、
ナポレオンは優秀と判断されたのでしょう。
士官学校は、規律はやはり厳格でしたが、食事の待遇はブリエンヌよりもさらに贅沢で、
例えば夕食では、ポタージュ、アントレ(前菜)2皿、肉料理、3種類のデザート。
生徒は貴族がほとんどなので、やはり豪華ですね。
しかも一応フランス料理のコースになってます。


パリの陸軍士官学校(École Militaire, 2002.3.14)

ここの砲術教官であったルイ・モンジュの回想によると、
ナポレオンは勤勉で、遊ぶことより勉強のほうが好きで、
数学と地理に詳しかったそうです。
また口数はすくなく孤独を愛し、気まぐれでお高くとまり、
極端にエゴイストで、
そして
自尊心が強くすべてを望む野心家だったそうです。
いかにもナポレオンっぽいですね(笑)。

  
士官学校時代のナポレオン。           ひとり勉強するナポレオン。壁のシルエットが将来を暗示している。

1785年9月、ナポレオンは士官候補生試験(卒業試験)に、
202名中42番の成績で合格し、候補生を経ずに、いきなり将校に任官しました。
しかも普通は3~4年かかるところをナポレオンは11ヶ月の在校で合格ですから、
非常に優秀だったようです。
ただ卒業時の評価は「状況次第で昇進の見込みあり」でした。
実際は「昇進の見込み」どころか、コイが滝を登るように、
ものすごいスピードで
出世の階段を駆け上がっていくことになります。



③陸軍砲兵部隊での任官とフランス革命勃発                
1785年11月3日、ナポレオンは
ヴァランスのラ・フェール砲兵連隊に
少尉として着任しました。
16歳でした。16歳は今の日本でいうと高校1年生くらいですね。
その歳で軍隊の小隊指揮官クラスの将校です。すごいですね。
ヴァランスの軍隊にいる時も、勤務時間以外は読書に明け暮れていたそうです。


バスティーユ監獄の襲撃(1789年7月14日)

1789年7月14日、王政による抑圧と支配のシンボルであったパリのバスティーユ監獄が
パリ市民たちによって襲撃され、
フランス革命が始まります。
フランス革命の理念は「自由・平等・博愛」です。

社会の頂点ですべてを牛耳っていた国王、貴族、聖職者たちの支配体制は、
革命によって打ち倒されました。
フランスはこの後しばらくは、
革命政府が政治を動かしていきます。

1793年1月21日、革命政府(国民公会)は、
国王ルイ16世をギロチンで処刑します。
1793年10月16日、続いて
王妃マリー・アントワネットが処刑されました。

フランスを取り囲む諸外国、
すなわちイギリス、オーストリア、ロシア、スペインなどはまだ王政なので、
王政打倒を掲げるフランス革命の動きが自分たちの国に波及してくるのを恐れて、
なんとかフランス革命を押しつぶそうと回りから攻めてきます。

フランス国内にも、かつての王政(国王を頂点とする支配体制)を支持して
これを復活させようという
反革命的な「王党派」勢力があちこちにいます。


④トゥーロン包囲戦                           
そうした「王党派」の拠点のひとつが、南フランスの
トゥーロンという港湾都市でした。
トゥーロンの商人たちは、革命政府による弾圧と財産剥奪を恐れて
イギリスに保護を求めて、イギリス・スペイン艦隊にトゥーロン港を
明け渡してしまったのです。



1793年9月、ナポレオンは、革命政府の命令により、
トゥーロン奪還作戦に参加します。
砲兵隊長としてカルトー将軍指揮下に入りました。
この頃には少佐になっていました(24歳)。

しかしこのカルトー将軍は、画家出身で、軍事的には無能でした。
歩兵による突入戦を主張するカルトー将軍と、
砲撃による敵艦隊駆逐を主張するナポレオンが激しく対立します。

ナポレオンはパリの革命政府(国民公会)に、この無能な司令官の交代を要望し、実現させます。
そしてナポレオンは、入り江を二分する岬に6週間で100門あまりの大型砲を集めました。
さらに同時に、イギリス軍の砲台や陣地を次々と占領していきます。


赤いはイギリス軍陣地、青いはフランス軍陣地


トゥーロン攻囲戦の時のナポレオン

こうなるとイギリス艦隊は袋のネズミです。
1793年12月18日、トゥーロンのイギリス軍は、
ナポレオンからの集中砲火攻撃と、港に艦隊が閉じ込められるのを恐れて、
兵器庫を爆破し、艦隊に逃げ込んで、一夜にしてトゥーロンの街から脱出しました。
12月19日、ナポレオンら革命政府(国民公会)軍は、トゥーロン市内になだれ込み、
トゥーロンはフランス革命政府に奪還されました。

1793年12月22日付で、ナポレオンはトゥーロン奪回の功績を認められ、

陸軍少将
に昇進しました。
3階級特進です。ナポレオンは、24歳で将軍となったのです。


現在のトゥーロンの港。フランス海軍の軍港でもある(2004.3.7)。



⑤ヴァンデミエール13日                          

将軍になったナポレオンですが、その後、
1794年7月28日(革命暦テルミドール10日)、革命政府を強引に率いて政敵を片っ端から
ギロチンにかけて恐怖政治を行っていた
ロベスピエールが失脚し、
自分自身もギロチンで処刑されます。
ロベスピエールの弟のオーギュスタンと親しかったナポレオンにも嫌疑かかけられ、
一時的に職を解かれたりします。

しかし立ち回りの上手なナポレオンは、
革命政府の中でも有力政治家だった国民公会議員の
バラスに接近します。

1795年10月5日、王党派と民衆、そして国民衛兵の一部が合流して、
パリ市内でテュイルリー宮殿(今のルーヴルの隣)にあった
革命政府(国民公会)に対する暴動を起こしました。
暴動勢力は2万5千、国民公会側政府軍兵力は4千に過ぎませんでした。
革命政府は大ピンチに陥ります。

この時、ナポレオンはバラスの推薦によって、
革命政府を守るための政府軍指揮官に任命されます(形の上はバラスの副官)。
ナポレオンは大急ぎで大砲40門をかき集め、テュイルリー宮殿に運び込みました。
そして近くのサン・トノレ通りを遮断して、サン・ロック教会前に砲列を敷いたのです。

1795年10月5日(
革命暦ヴァンデミエール[ぶどう月]13日)、
ナポレオンはサン・ロック教会の前に押し寄せてきた暴動軍に、
至近距離から砲弾をぶっ放し、銃撃を雨あられと浴びせることで、暴動を鎮圧しました。
かくしてナポレオンは
国民公会政府の救世主となったのでした。
彼はこの勝利によって
「ヴァンデミエール将軍」と呼ばれました。

サン・ロック教会前の暴動軍に向けて砲撃するナポレオン


現在のサン・ロック教会(2004.3.23)


⑥第1次イタリア戦役                           
1795年10月28日(26日?)、国民公会が解散し、
新たに総裁政府が発足しました(本拠はリュクサンブール宮殿)。

ナポレオンはヴァンデミエール13日事件の功労者として認められ、中将に昇進するとともに
フランス国内軍最高司令官に任命されました。
さらに1796年3月2日、ナポレオンは
26歳にしてイタリア方面軍最高司令官に任命されました。

なぜイタリア方面軍だったか?
当時のイタリアはまだ小さな国がモザイクのように寄せ集まった状態で、
しかもそのほとんどが
大国オーストリア(ハプスブルク帝国)と同盟関係にあったのです。
なので、イタリア、特に北イタリアには、多くの
オーストリア軍が駐留していました。

オーストリアは、フランス革命の波がヨーロッパ中に広がるのを恐れて、
フランス革命を潰そうと、つまり機会さえあればいつでも
フランスに攻め込もうとしていたのです。

ナポレオンはイタリア方面へ進軍することになりますが、
その直前の1796年3月8日、貴族の未亡人だった
ジョゼフィーヌと結婚しています。
このジョゼフィーヌは、先にナポレオンを司令官に引き上げたバラスの愛人でした。

ジョゼフィーヌ

ナポレオン26歳、ジョゼフィーヌ32歳でした。
「打算と虚偽の結婚」とも言われています。
結婚式の2日後、ナポレオンはイタリア方面作戦の指揮を執るために南仏のニースに向かいます。

ニースで待っていたイタリア方面軍の兵士たちは、装備も貧弱、食料も不足していて
士気が下がりまくっていました。
そこにいきなりやって来たのは、たかだか26歳の若造の司令官です。
ナポレオンは最初は兵士たちから全く信頼されていませんでした。



以下は、第1次イタリア戦役の主な戦いです。
これらは
すべてナポレオンの勝利でした。
これらの戦いを通して、ナポレオンは兵士たちから全幅の信頼と崇敬を
勝ち取っていったのでした。
ナポレオンの活躍によって、フランスは北イタリアに広大な領土を獲得し、
オーストリアとの協定によってベルギーまで手に入れています。


◆1796年4月/ピエモンテ攻略戦
◆1796年5月5日~/ロンバルディア攻略戦とローディの渡河作戦(5月10日)
◆1796年5月15日/ミラノ入城
◆1796年6月/マントヴァ攻囲戦
◆1796年8月/カスティリオーネの戦い
◆1796年11月15日~17日/
アルコレの戦い
◆1797年1月14日/リヴォリの戦い
◆1797年4月18日/オーストリアと休戦協定
◆1797年10月18日/オーストリアと正式な平和条約(カンポ・フォルミオ条約)締結


第1次イタリア戦役におけるナポレオンの主な進軍コース



下の絵は、1796年11月15日~17日の「アルコレの戦い」の際に、
アルコレ橋を渡るナポレオンを描いた有名な絵
「アルコレ橋のボナパルト」
です(アントワーヌ=ジャン・グロ、1796年)。
実際は、ナポレオンはアルコレ橋を強引に渡ろうとして
川の堤防からすべり墜ちたりしています。
また副官がナポレオンを守ろうとして銃撃されて死んでいます。
それでもこの戦いはフランス軍の大勝利に終わり、
アルコレにいたオーストリア軍部隊は壊滅しました。
アルコレの戦いは、いわゆる
「ナポレオン伝説」を作り上げた最初の戦いでした。
「アルコレ橋のボナパルト」


1796年12月10日、ナポレオンはパリに凱旋しました。
パリ市民、そしてフランス国民が、熱狂的にナポレオンを迎えたことは言うまでもありません。



⑦エジプト遠征                             
フランスは、ナポレオンのおかげで陸上の戦いでは勝利を重ねましたが、
海軍力はまだ
イギリスに及びませんでした。
ナポレオンは対仏大同盟の主要国であり、強力な海軍力を持つイギリスとその植民地である
インドとの間を絶つために、インドとイギリスの中継地点である
エジプトを抑えることを、
総裁政府に進言し、認められました。

◆1798年5月19日、ナポレオンは東洋方面軍最高司令官としてエジプト遠征へ出発。
◆1798年7月25~30日、ナポレオンはアブキールの戦いでトルコ軍に大勝。
◆1798年8月1日、アブキール湾でフランス艦隊が、
ネルソン提督のイギリス艦隊に大敗。

アブキール湾の戦い(1798年)


このように、フランスは
海軍が全然ダメでした。
ネルソンにフランス艦隊が壊滅させられたことを受けて、
またまたオーストリアがフランスへの抵抗を始めました。
そして1796~1797年にナポレオンに奪われた北イタリアを奪還したのです。

1799年10月、これはいけないということで、
ナポレオンは秘かにエジプトを脱出し、フランスに戻りました。 

なお、ナポレオンのエジプト遠征は、
軍事的にはあまり大した成果をあげたとは言えませんでしたが、
彼が軍隊とともに連れて行った
学術調査隊は、エジプトにおいて
大きな
考古学的な成果をあげました。
最も有名な業績は
「ロゼッタ・ストーン」の発見です。
フランスのシャンポリオンが解読に成功しました。
ただし、現物は今はロンドンの大英博物館にあります。
ロゼッタ・ストーン



⑧ブリュメール18日のクーデター                     
さて、フランスに戻ったナポレオンは、国民からの絶大な人気を背景にして、
パリ防衛隊総司令官に任命されます。

1799年11月19日(共和暦8年
ブリュメール[霧月]18日)、総裁政府の幹部を排除し、
クーデターを決行します。
そしてシェイエス、デュコとともに、3人の執政(コンスル)からなる
執政政府(統領政府)を樹立しました。

その後、形ばかりの人民投票によって新憲法を定め、
1799年12月24日、ナポレオンは正式に
第一執政となります(30歳)。
もはや一介の軍人ではなく、フランスという国家の
政治の頂点に立ったのでした。
この「執政」というのは
「コンスル」(Consul )と言い、
古代ローマの「執政官」
のことです。
ナポレオンは、自分を偉大なる古代ローマの最高政務官になぞらえて、
自分の権威づけを行ったのでした。
そしてナポレオンは、これからさらに栄光に満ちた上り坂を
引き続き登って行くことになります。


第一執政となったナポレオン・ボナパルト


皆がナポレオンに忠誠を誓う


第一執政ナポレオンが使った書類カバン


 今回は、小レポートやその他の提出物はありません。
 次は第20回が終わったところで小レポートの提出を予定しています。


 次回は、6月24日(木)の午前中(11~12時頃)に、第19回目の授業内容を
 このサイトにアップします。

 http://wars.nn-provence.com/
 にアクセスして下さい。


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【本日の授業に関する参考文献】

『週刊100人・第6号/ナポレオン・ボナパルト』デアゴスティーニ、2003年7月。
『歴史群像グラフィック戦史シリーズ/戦略・戦術・兵器事典3/ヨーロッパ近代編』
                             学習研究社、1995年10月。
『別冊歴史読本・特別増刊/総集編・大ナポレオン百科』新人物往来社、1993年12月。
『歴史読本・特別増刊/フランス革命とナポレオン』新人物往来社、1989年7月。
『歴史読本ワールド/特集:ナポレオン』新人物往来社、1990年9月。
有坂純「ナポレオンの第一次イタリア遠征」『歴史群像』第59号、学習研究社、2003年6月。
志垣嘉夫編『世界の戦争7/ナポレオンの戦争-戦争の天才児・その戦略と生涯』
                               講談社、1984年。
高村忠成『ナポレオン入門-1世の栄光と3世の挑戦』レグルス文庫、第三文明社、2008年。
柘植久慶『ナポレオンの戦場』原書房、1988年。
長塚隆二『ナポレオン・上巻・人心掌握の天才』文春文庫、1996年。
長塚隆二『ナポレオン・下巻・覇者専横の末路』文春文庫、1996年。
松村劭『ナポレオン戦争全史』原書房、2006年。
松嶌明男『図説・ナポレオン-戦争と政治・フランスの独裁者が描いた軌跡』
                             河出書房新社、2016年。
ジェフリー・エリス『ナポレオン帝国』杉本淑彦・中山俊訳、岩波書店、2008年。
ローラン・ジョフラン『ナポレオンの戦役』渡辺格訳、中央公論社、2011年。
ロジェ・デュフレス『ナポレオンの生涯』安達正勝訳、文庫クセジュ、白水社、2004年。
フランソワ・ヴィゴ=ルシヨン『ナポレオン戦線従軍記』瀧川好庸訳、中公文庫、1988年。
J. P. ベルト『ナポレオン年代記』瓜生洋一ほか訳、日本評論社、2001年。
ルードウィッヒ、E.『ナポレオン伝』金沢誠訳、角川文庫、1966年。
ジョルジュ・ルノートル『ナポレオン秘話』大塚幸男訳、白水社、1991年。
ティエリー・レンツ『「知の再発見」双書84/ナポレオンの生涯』
                   福井憲彦監修、遠藤ゆかり訳、創元社、1999年。
GARNIER, Jacques, Atlas Napoléon, Soteca Napoléon 1er Éditions, 2006.
Les Collections de l'Histoire, no.20, 2003-06/Napoléon,
                         l'Homme qui a changé le Monde.
Napoléon 1er, no.22, 2003-09・10/Bonaparte et le siège de Toulon
POISSON, Georges/Napoléon Ier et Paris, Tallandier, 2002.
ROTHENBERG, Gunther E., Les guerres napoléoniennes 1796-1815, Autrement, 2000.
TRANIÉ, Jean & CARMIGNIANI, J.C., 
     Napoléon Bonaparte, 1ère campagne d'Italie 1796-1797
, Pygmalion, 1990.
VOLKMANN, Jean-Charles, La généalogie des Bonaparte, Jean-Paul Gisserot, 2001.
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