オンライン授業/ヨーロッパの戦争と文明
第17回(6月14日・月曜3限)/英仏百年戦争とジャンヌ・ダルク    
その2/オルレアンの解放とルーアンでの火刑まで    



         
                
ジャンヌ・ダルク


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【年表】
1428年  英軍は仏王太子シャルルを攻めるべく、その拠点となるオルレアンを包囲。
1429年  ジャンヌ・ダルク、王太子のいるシノンに到着(2月23日)。
1429年  ジャンヌ・ダルク、
オルレアンを解放(4~5月)。
     王太子シャルル、ランスでフランス国王に戴冠(7月)。
1430年 ジャンヌ、コンピエーニュの戦いでブルゴーニュ軍に捕まる(5月)。
1431年 ジャンヌ・ダルク、
ルーアンで火刑(5月)。
1455年  ジャンヌの復権裁判開始。
1456年 ジャンヌが火刑にされた地であるルーアンにて、処刑裁判の破棄が宣告。
1920年 ローマ教皇ベネディクトゥス15世によって列聖され、聖人となる。
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今回は、前回に引き続き、英仏百年戦争とジャンヌ・ダルクについてです。
ちょっとおさらいをしておきましょう。

前回は、1338年から始まったイングランド(イギリス)とフランスの間の英仏百年戦争が、
フランス国王シャルル4世の死んだ後の後継者争いから始まったとお話しました。

その後、
フランス側は連戦連敗を重ねます。
さらに本来はフランス王家の親戚筋にあたるブルゴーニュ公国まで、
イングランドと手を組んで攻めてきます。

1422年にフランス国王シャルル6世が死んだ後、その息子であった跡継ぎの
王太子シャルルは、パリを離れて、ロワール地方のシノンに避難していました。

1428年、イングランド軍は、ロワール川の拠点であったオルレアンを包囲します。
このオルレアンが陥落すれば、一気に王太子シャルルの支配地域に攻め込んで
フランス全体を手に入れることが可能となります。

オルレアンの街は、なんとかイングランド軍に抵抗していましたが、
攻め落とされるのも時間の問題でした。
王太子シャルルにとっては、このオルレアンの陥落は
絶体絶命のピンチとなるものでした。

そこにまるで彗星のように突然現れたのが、ジャンヌ・ダルクです。
彼女は「オルレアンを解放してフランスを救え」という不思議な「声」を聞いて、
フランス東部のドンレミ村から、はるばる500キロも旅をして、
王太子が避難していたシノンにやって来るのです。

ドンレミ、オルレアン、シノンの位置関係を地図で確認しておきましょう。




1.シノン(Chinon)                          
1429年2月23日(または3月6日)、ジャンヌはブルゴーニュ派の支配する土地を横断し、
約500キロを旅して王太子のいるシノンに到着しました。
シノンの城は、ロワール川沿いにあって、今でも廃墟となった建物の壁や塔が残っています。

シノン城


シノン城の広間の跡。大きな暖炉が壁に残っている。


2月25日、ジャンヌは王太子シャルルに謁見します。
その際、ジャンヌは、多くの廷臣に紛れ込んだシャルルをひと目で見つけ出し、
その後別室で二人だけで話をしました。
ジャンヌは王太子シャルルの
「秘密」について話し、
それによってシャルルはジャンヌのことを信じるようになったと言われています。

ジャンヌは、いったんポワティエという街に移され、そこで宗教的な審問と、
処女であることの検査を受けました。
かくしてジャンヌは
「ラ・ピュセル(少女・乙女)」と呼ばれることとなりました。

シノンの城の大広間で王太子シャルルを探すジャンヌ。
リュック・ベッソン監督・映画『ジャンヌ・ダルク』(1999年)より。
ジャンヌを演ずるのはミラ・ジョヴォヴィッチ。


2.オルレアンの解放                          

ジャンヌは、今度はトゥールに向かい、そこで武具と護衛者が与えられ(1429年4月)、
さらにブロワという街に入ります(4月22日頃)。
そこには兵員と補給物資が集められていました。
ジャンヌはその補給部隊とともにブロワを発って(4月28日)、
いよいよオルレアンに向かいます。


現在のオルレアン。手前はロワール川。街には大きなサント=クロワ大聖堂がある。


ジャンヌは、王太子によって
17歳にしてオルレアン解放軍の総司令官に任命されていました。
率いたのは少なく見積もって総勢3000、多く見積もった説では1万~1万2千と言われています。
一方、イングランド軍は、オルレアンの街の周囲に要塞を築いて包囲していました。
下の地図(↓)の青く囲んだ部分がオルレアンの市街で、その周囲にある赤い部分が
イングランド軍の要塞・砦(とりで)です。
オルレアンの西(左)側にいくつも要塞があります。
東(右)側にはちょっと離れた所に1つだけ。
そしてロワール川の南にいつくかあります。




  
オルレアンを包囲して攻撃するイングランド軍(絵の右側)        オルレアンに向かうジャンヌ


◆4月29日、オルレアンに入った救い主ジャンヌを、住民たちは熱狂的に迎えました。
またフランス側は、イングランド軍に阻まれることなく、補給物資と食料を
籠城するオルレアンの街に運び込むことに成功します。


◆5月4日の午後、フランス部隊はジャンヌに無断で、オルレアンの東に少し離れて造られていた
イングランド軍の
「サン・ルー要塞」を攻めます。いったん撃退されるのですが、
ジャンヌが途中から戦いに参加し、ついにこの要塞を陥落させました。
オルレアン解放のための最初の勝利でした。

サン・ルー要塞への攻撃


◆5月6日、フランス軍は今度はロワール川を渡って、川の南にある
サン・ジャン・ルブラン要塞オーギュスタン要塞を攻撃し、これを奪取しました。
サン・ジャン・ルブラン要塞は、ジャンヌたちが攻撃した時にはすでに兵士たちは誰もおらず、
簡単に占拠し、次いでオーギュスタン要塞を力ずくで奪い取ったのでした。

       
オーギュスタン要塞 ↑         ↑ サン・ジャン・ルブラン要塞


◆5月7日早朝、ジャンヌは再びロワール河を渡り、
トゥーレル要塞に総攻撃をかけました。
トゥーレル要塞は、前の日に奪取したオーギュスタン要塞のすぐ北の川沿いにある砦です。
オルレアン解放戦の最後にして最大の戦いが、このトゥーレル要塞で繰り広げられました。


最初は、フランス側の貴族や騎士たちは、このトゥーレル要塞攻撃には消極的でした。
彼らはこの数日、毎日のように次々と敵の要塞を落としてきたので、
少し休んで体制を整えてから攻撃したいと考えていました。
しかしジャンヌは違いました。
一気にオルレアン解放へと突き進みたいジャンヌは、朝早くから攻撃を開始したのです。
それを見て、他の貴族や騎士たちも次々と後に続きました。

しかし午後1時頃、トゥーレル要塞の壁をよじ登ろうとしていたジャンヌは
敵の放った矢を受けて負傷してしまいます。

矢を受けて負傷するジャンヌ。映画『ジャンヌ・ダルク』(1999年)より。


フランス軍はジャンヌが負傷したので、いったん撤退を決めます。
しかしジャンヌはそれに反対して、兵士たちにしばしの休息を与えた後で、
午後8時頃、再び攻撃を再開しました。
イングランド軍は、死んだと思っていたジャンヌが再び生き返ったことに
驚愕して、
戦意を喪失したとも言われています。
結局
トゥーレル要塞は陥落し、ジャンヌは喜びにわくオルレアンの街に凱旋しました。

5月8日、イングランド軍はオルレアンの包囲を解いて退却を開始しました。
ジャンヌがイングランド軍を打ちのめして
オルレアンを解放したというニュースは
たちまち広く行き渡ったのでした。

  
トゥーレル要塞を攻撃するジャンヌ         オルレアンの街に凱旋するジャンヌ

 

オルレアンの街の中央広場には、
ジャンヌ・ダルクの騎馬像(写真左上)が立っています。
オルレアン市民は今でもジャンヌに感謝の念を持っていると言われ、
毎年4月末~5月初めには、この街で
「ジャンヌ・ダルク祭」(写真右上)が行われます。


3.シャルル7世、ランスで戴冠                      
ジャンヌ・ダルクの活躍によってオルレアンが解放され、
次第にフランス側が戦いを有利に進めます。
そしてとうとう、ジャンヌの予言通り、
1429年7月17日、王太子シャルルは
ランス大聖堂において戴冠式(塗油の秘蹟の儀式)を行い、
フランス国王
シャルル7世として即位しました。
ランス大聖堂は、メロヴィング王家のフランス国王クローヴィスが戴冠式を行って以来、
歴代のフランス国王がここで戴冠式を挙げてきました。
  
ランス大聖堂(2019.3.16)           シャルル7世の戴冠式(2004.3.25)

シャルル7世の戴冠式を描いたパリのパンテオンにある絵(右上)には、
ジャンヌが王冠を授けられるシャルル7世のすぐ右にいます。
しかし戴冠式のその場にジャンヌがいたかいなかったかは、さまざまな説があるようです。

4.ルーアン、ジャンヌ・ダルクの火刑                  
1429年のランスでの戴冠式の後、ジャンヌは引き続き、北フランスに残っている
イングランド軍を駆逐するために戦いを続けますが、
1430年5月、ジャンヌはパリの北にあるコンピエーニュでの戦いで、
ブルゴーニュ軍に捕まってしまいます。
1430年、ジャンヌは身代金と引き替えにブルゴーニュ軍からイングランド軍に引き渡され、
12月24日に、イングランドが支配していた
ルーアン(Rouen)の、
ブーヴルイユ城に監禁されます。



ルーアンでジャンヌが監禁された塔


1431年2月21日から、ルーアンでジャンヌの異端審問裁判が開始されます。
もちろんこの裁判は、イングランド主導による、最初から結論ありきの
ヤラセ裁判ですね。
裁判の指揮は、これもまたイングランドの意を受けた代理裁判長
ピエール・コーション司教です。
 
裁判長ピエール・コーションとジャンヌ         映画『ジャンヌ・ダルク』でのピエール・コーション


ジャンヌは、彼女が大天使ミカエルの姿を見たり、
「声」を聞いたと主張したこと、聖職者や教会を尊重しなかったこと、
そして何よりも男装したり、兵士の姿をしたことなど、12カ条からなる罪状で有罪となりました。

1431年5月30日、ジャンヌ・ダルクは「異端者」として教会から破門され、
イングランド軍による即時死刑が宣告されました。
そしてルーアン市内の
ヴィユー・マルシェ広場( Place du Vieux-Marché )で火刑となりました。
 
ジャンヌの火刑(パリのパンテオン)            ルーアン。ジャンヌが火刑になった場所に高い十字架が立つ


フランスが百年戦争に勝利し、イングランド軍がフランスから去った後、
1455年から、今度はジャンヌの
「復権裁判」がパリのノートル=ダム大聖堂で始まります。
そして1456年7月7日、あらためて
ジャンヌの無罪が宣告されました。
ジャンヌの死から25年後のことでした。
そして489年後の1920年5月16日、ローマ教皇ベネディクトゥス15世がジャンヌを列聖し、
ジャンヌは
聖人(聖女)となりました。
それにしても、その時その時の時代の状況で、あるいは政治的な権力者たちの都合で、
ある時は罪人として殺されたり、またある時は聖人として崇められたり、
実に勝手なものですね。

 
ルーアンのヴュー・マルシェ広場に建つ聖ジャンヌ・ダルク教会の外観と内部(2001.8.11)


5.その後のジャンヌ・ダルク                       

ジャンヌ・ダルクは、
フランスを救った救世主でした。
したがって、フランスという国が危機に陥った時などには、

救世主のシンボル
として引っ張り出されました。
とりわけ19世紀になって
ナショナリズムの動きが高まってきて、
ヨーロッパ諸国が相互に争い合うようことになると、
ジャンヌ・ダルクには国民の意識・兵士の士気を高める役割が期待されました。

  

左上の絵は、1896年に描かれたもので、19世紀のフランス軍の兵士たちを
先頭で率いるジャンヌ・ダルクです。この時代のフランスの対抗国はドイツです。
「フランスの兵士たちよ、さぁ私に続け! ドイツなんかやっつけろ!」
みたいな感じですね。

右上の絵は、ちょっと見にくいですが、1913年に描かれたもので、
フランス軍の作戦参謀たちに指示を与えるジャンヌ・ダルク(中央)です。
やはりドイツが仮想敵国です。実際、その翌年の1914年には
ドイツとの間で血みどろの
第1次世界大戦が始まります。


さらに最近の話では、フランスの
極右勢力がジャンヌ・ダルクを大々的に利用しています。
フランスの極右政党は「フランス国民戦線」(Front national)です。
2年前に党名を変えて「フランス国民連合」となりました。
今の党首はマリーヌ・ル・ペンという女性です。
下の写真(↓)は、この極右政党の集会の様子ですが、メンバーの後のスクリーンに
デカデカとジャンヌ・ダルクの黄金の騎馬像(パリにある)が描かれています。


極右なので、フランスからの
移民や外国人の排斥、伝統的な価値観への回帰、
民族主義や国家主義の復活、とにかく何でもかんでも自国ファーストで進めるという思想です。
EU統合にも反対です。
彼らにとって、特に移民や外国人、そしてEUがフランスを危機に陥れていて、
そうした危機からフランスを救ってくれる救世主のシンボルが
ジャンヌ・ダルクなのです。
ジャンヌ・ダルクも、自分が死んで600年近く後に極右に引っ張り出されて利用されるなんて、
きっと想像もしていなかったでしょうね。



 

日本でも「戦う女」のシンボルとして、ジャンヌ・ダルクが使われています。
上の写真(↑)は、NHKの
大河ドラマ「八重の桜」(2013年)で、
幕末の戊辰戦争の際に、幕府軍と戦った会津藩の新島八重の物語です。
八重を演じたのは綾瀬はるか。
番組のキャッチフレーズは
「幕末のジャンヌ・ダルク」でした。




(↑)これは戦国時代の伊予(現・愛媛県)で、
戦国大名大内氏と戦ったという伝説が残る勇ましい「鶴姫」です。
写真は鶴姫がいたとされる瀬戸内海の大三島の歴史イベントです。
キャッチフレーズは
「瀬戸内のジャンヌ・ダルク」です。


最後は、日本のビジュアル系ロックバンド「ジャンヌ・ダルク」です。
1996年に結成ですが、なんでバンド名が「ジャンヌ・ダルク」なのか、
まったく意味不明です(笑)。しかも、つづりが少し違うし。
残念ながら(?)2019年に解散したようです。



本日は前半と後半には分けていないので、ここまでです。
中世に関してはこれで終わりです。
次回(第18回)からは近代になります。「ナポレオンの生涯」(その1)です。

 6月17日(木)は、授業のアップロードはありません。
 次回は、6月21日(月)
の午前中(11~12時頃)に、第18回目の授業内容を
 このサイトにアップします。

  
http://wars.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。

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【本日の授業に関する参考文献】
大谷暢順『聖ジャンヌ・ダルク』中公文庫、1998年。
大谷暢順『聖ジャンヌ・ダルク』中公文庫、1998年。
酒見賢一・近藤勝也『D'arc ~ジャンヌ・ダルク伝(1)』徳間書店、1995年。
佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社新書、2003年。
佐藤賢一「オルレアン攻防戦」『歴史群像グラフィック戦史シリーズ/戦略・戦術・兵器事典5
                  /ヨーロッパ城郭編』学習研究社、1997年6月。
清水正晴『ジャンヌ・ダルクとその時代』現代書館、1994年。
高山一彦編・訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』白水社、1984年。
竹下節子『ジャンヌ・ダルク 超異端の聖女』講談社現代新書、1997年。
堀越孝一『ジャンヌ=ダルク』朝日文庫、1991年。
村松剛『ジャンヌ・ダルク』中公新書、1967/1992年。
ジャン=ポール・エチュヴェリー『百年戦争とリッシュモン大元帥』
                   大谷暢順訳、河出書房新社、1991年。
アンドレ・ボシュア『ジャンヌ・ダルク』
                新倉俊一訳、文庫クセジュ、白水社、1969/1991年。
ジュール・ミシュレ『ジャンヌ・ダルク』森井真・田代葆訳、中公文庫、1987/1994年。
レジーヌ・ペルヌー『ドキュメンタリー・フランス史/オルレアンの解放』
                      高山一彦訳、白水社、1986年。
レジーヌ・ペルヌー『ジャンヌ・ダルク 復権裁判』高山一彦訳、白水社、2002年
レジーヌ・ペルヌー『ジャンヌ・ダルクの実像』
                   高山一彦訳、文庫クセジュ、白水社、1995年。
BONNET, Laurent, Jeanne d'Arc, Éditions Ouest-France, 2005.
BONNET et BLANCHARD, En chemin avec Jeanne d'Arc, Ouest-France, 2004.
CURRY, Anne, The Hundred Years' War, 1337-1453, Osprey, 2002
Le Figaro, hors-série, 2011-11, Jeanne d'Arc, Le mythe-La légende-L'histoire.
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