オンライン授業/ヨーロッパの戦争と文明
第16回(6月10日・木曜3限)/英仏百年戦争とジャンヌ・ダルク(その1)  
(※ページの画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込みするとちゃんと表示されると思います)
★今回は、前半と後半には分かれていません★
「英仏百年戦争とジャンヌ・ダルク(その2)」は、第17回(6月14日)にアップロードします。

               
               ジャンヌ・ダルク(Jeanne d'Arc)

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【年表】
1328年  フランス国王シャルル4世死去。カペー王家断絶。
     フランス国王フィリップ6世として即位。(ヴァロワ朝)
1337年  イギリス国王エドワード3世、フランス王位を要求。
1338年  英国王、ノルマンディー上陸(
百年戦争、本格的開始)。
1346年  
クレシーの戦い(8月)。英・エドワード黒太子に対してフランス側の大敗。
1356年  
ポワチエの戦い。フランス軍大敗(国王ジャン2世、英軍の捕虜に)。
1363年  ブルゴーニュ公領成立(初代はフィリップ豪胆公)
1360年  ブレティニー仮条約(5月)・カレー本条約(10月)
1364年  ジャン2世、イングランドで捕囚のまま没。
1392年   仏国王シャルル6世、発狂。
1405年  ブルゴーニュ公・ジャン無畏王(2代目Jean sans Peur)、パリを軍事制圧。
1415年  イギリス軍、ノルマンディーに侵攻。
     
アジャンクールの戦い(10月)。フランス軍大敗。
1419年  王太子シャルル、和解に来たブルゴーニュ公(ジャン無畏王)を暗殺。
1428年  英軍は仏王太子シャルルを攻めるべく、その拠点となるオルレアンを包囲。
1429年  ジャンヌ・ダルク、王太子のいるシノンに到着(2月23日)。

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今回と次回の2回にわたって、14世紀~15世紀に行われた、イギリスとフランスの間の
英仏百年戦争とジャンヌ・ダルクについてお話しします。

さて、上の年表を見て下さい。
ジャンヌ・ダルクが歴史の表舞台に登場するまでの経過が記してあります。
この年表を見ただけで、歴史の苦手な人は「うわぁ~、勘弁してくれ!」
みたいな感じかも知れませんね。

英仏百年戦争については、細かいことを書き出すと、際限なく記述が増えます。
とにかく関係者がすごく多いのと、人間関係がとっても複雑で、
ヘタをしたら何が何だか訳が分からなくなってしまいます。

なので、この授業では、「皆さんにとって分かりやすい」ということを最優先にして、
細かいことをかなり省いたり、シンプルにしたりして話を進めます。


1.フランス王位を巡る後継者争い                    
と言っても、やはり歴史の話をあれこれしておかなくてはなりません。
さて、年表の一番最初にあるように、
1328年2月1日、フランス国王
シャルル4世が亡くなります。
カペー王家最後の国王で、これにてカペー王家の直系は断絶します。
英仏百年戦争は、ものすごく簡単に言ってしまうと、亡くなったこのシャルル4世の
後継問題、つまりそのあと
誰がフランス国王になるのか、ということで
百年間も争われた戦争でした。

ただ「百年戦争」と言っても、百年間ずっと戦争していたわけではなくて、
断続的に行われた戦いを総称して「百年戦争」と言うわけです。

さて、亡くなったシャルル4世は、子供たちに次々と先立たれ、
跡継ぎとなる息子がいませんでした。
それでカペー王家は終わりになるのですが、
フランス王国の貴族や聖職者たちは、王家の親戚筋にあたる「ヴァロワ伯家」から
亡くなったシャルル4世の5代前の国王フィリップ3世の孫にあたる
ヴァロワ伯フィリップを引っ張り出して国王にしました。
1328年、彼は
フィリップ6世として即位しました。
なのでこの国王は、
「ヴァロワ王家」初代の国王ということになります。


ここでイギリス(イングランド)の登場です。
当時のイギリス国王は
エドワード3世でした。
彼は、イギリス国王であると同時に、先祖から引き継いできた
フランス国内のアキテーヌという地方も領土として支配する
アキテーヌ公爵でもありました。

「イギリス国王」にして、同時にまた「アキテーヌ公爵」なのです。
そして、「アキテーヌ公爵」という立場では、フランス国王の臣下なのです。
しかも家系で言うと、イングランド王家とフランス王家は親戚です。
いやぁ、複雑な話ですね。



アキテーヌ公領というのは、地図を見ると分かるように、すごく広いです。
しかも地図にあるボルドーというところは、今でもそうですが、
素晴らしいワインの産地です。
イギリス人は、ボルドーから美味しいワインを輸入して、楽しく味わっていたわけですね。

一方、フランス国王にしてみれば、自分の国の中に、
イギリスが支配しているこんなにデカい土地があるというのは、まったく面白くありません。
しかもイギリス人は美味しいボルドー・ワイン飲んでるし。

ということで、新しくフランス国王になったヴァロワ家のフィリップ6世は、
なんと一方的に(まあ細かいことはいろいろあって)、
イギリスが支配するこの
アキテーヌ公領の没収を宣言したのです。

イギリス国王エドワード3世も黙ってはいません。
彼はアキテーヌ公領没収を拒否するだけでなく、
さらには
フランス王位まで要求したのです(1337年)。
「なに言ってんだい、オレこそがフランス国王なんだ!おまえじゃない!」てな感じですね。
彼の母親は、亡くなったシャルル4世の4代前のフランス国王である
フィリップ4世の娘だったのです。
ああもう、充分複雑でややこしい! という皆さんの叫びが聞こえてきそうです(笑)。


    
仏国王フィリップ6世                英国王エドワード3世


2.開戦とフランス側の連戦連敗                       
とにもかくにも、こうして戦争が始まりました。
1338年7月、イギリス国王エドワード3世は、英仏海峡を渡り北フランスに上陸し、
貿易で密接な関係にあったフランドル(今のオランダ西部~ベルギー北部)を味方に付けて
1339年9月から、本格的にフランス王領に侵攻を開始しました。

百年戦争の前半の戦いは、イギリス側が圧倒的に有利に戦いを進めました。
フランス側は連戦連敗といった状況が続きました。次に3つの大きな戦いを挙げておきます。
全部、フランス軍の大敗です。


◆1346年8月26日/ クレシーの戦い英・エドワード黒太子に対してフランス側の大敗。
 北フランスのカレーの南にあるクレシーでの戦いです。
 兵力は、フランス側40000、イングランド側12000。
 フランス軍は伝統的な華やかな騎士たちの集まり。
イングランド軍は騎兵6000,弓兵6000でした。
 このイングランドの
長弓兵(ロング・ボウを持った弓兵)が、戦いの勝敗を決しました。
 昔ながらのように突撃するフランスの騎士に対して、左右から雨あられと矢が放たれ、
 フランスの騎士たちは、何度も突撃するたびに次々と倒されていきました。
 フランス側の戦死者は12000とも20000、イングランド側は数百程度と言われています。

クレシーの戦いで戦死者を数える英国王エドワード3世


◆1356年9月19日/ポワチエの戦いフランス軍大敗。
 フランスではフィリップ6世が亡くなり、ジャン2世が後を継ぎました。
 このジャン2世のフランス軍と、イングランドの黒太子エドワードとの戦いです。
 場所はフランスの中西部のポワティエです。
 フランス軍30000、イングランド軍は6000でした。
 しかしこの戦いは、
クレシーの戦いの単なる再現でした。
 再びイングランドの長弓部隊が、突撃するフランス騎士を次々と倒していきました。
 フランス側は、教訓に学ぶということがなかったのですね。
 今度は、なんと国王ジャン2世自身が、英軍の捕虜になってしまいました。
 1364年、ジャン2世は捕虜のまま、ロンドンで亡くなっています。


ポワティエの戦い(1356年)左側が英軍、右側が仏軍。英軍は長弓を持っている。


◆1415年10月25日/アジャンクールの戦いフランス軍大敗。
 14世紀からフランスでは内紛が絶えず、一方イギリスでは1413年ヘンリー5世が国王となります。
 好戦的なヘンリー5世は、フランス国内の内戦につけ入るように、
 1415年8月、またまたフランスに侵入します。
 フランス側は、1415年10月25日、英仏海峡のカレーに近い北フランスのアジャンクールにて
 これを迎え撃ちます。
 フランス国王軍約50000、イングランド国王軍約12000。
 数の上では圧倒的にフランス側が有利でしたが、
 戦いは上記の
「クレシーの戦い」「ポワティエの戦い」とまったく同じ展開でした。
 無駄な突撃ばかりを繰り返すフランスの騎士たち、
 それを左右両翼から狙い撃ちするイングランドの長弓隊。
 フランス側の戦死者は10000を越え、貴族や騎士も大量に捕虜になりました。
 相変わらず、フランスは教訓に学ぶということが、これっぽっちもなかったということですね。


アジャンクール戦い(1415年)左側が英軍、右側が仏軍。


3.ブルゴーニュの参戦とオルレアンの包囲                

英仏百年戦争というと、イングランド(イギリス)とフランスの間の戦争
というイメージが強いですが、
実は、この2つの国以外に、
「ブルゴーニュ公国」という第3の勢力が加わります。
ブルゴーニュ公国は、もともとは、フランス国王ジャン2世が、
末っ子の4男フィリップにブルゴーニュを与えてそこの公爵にしたのが始まりです。

なので、ブルゴーニュ公爵家は、
フランス王家の親戚ですね。
ところが、このブルゴーニュ公国は、フランドル(オランダ西部~ベルギー北部)も
支配領土に収めるようになります。
このフランドルは、イングランドとの間の毛織物産業で強く結び付いていたのですね。
イングランドから毛織物の原料である羊毛を輸入して加工し、
これによって経済的に繁栄していたのです。
首都は今でもブルゴーニュ地方第1の都市であるディジョンです。マスタードが有名ですね。
あと、なんと言ってもブルゴーニュはワインが世界的に有名です。
(ちなみに、東海大学はディジョンにあるブルゴーニュ大学と
フランス語の留学協定を結んでいます)


さて話を戻すと、そういう訳でブルゴーニュ公は、
経済的な結びつきの強いイングランドを敵に回すわけにはいきません。
フランス王家の親戚筋であるにもかかわらず、
イングランドと手を結んで
本家と戦うことになりました。
フランス国内の内紛でも、強力な軍事力を発揮して、
首都であるパリを占領したりします。

下の地図のグリーンの部分がブルゴーニュ公国で、
15世紀に領土が最も拡大した時のものです。



フランス国王シャルル6世は1392年くらいから、精神に異常をきたしてしまいます。
自分の体がガラスで出来ているなんて妄想を抱いて、
発狂してしまうのです。
なので、フランス国内政治の実権は、王家の親戚の筆頭であったブルゴーニュ公が握ります。

シャルル6世の息子で
王太子(国王の跡継ぎ)であったシャルルは、
パリから南に離れたブールジュというところに逃げてしまいます。

   
王太子シャルル(後の国王シャルル7世)      暗殺された第2代ブルゴーニュ公ジャン


それでも
ブルゴーニュ公2代目のジャンは、本家であるフランス王家と仲直りしたいと
思って、王太子シャルルと会談するためにモントローという場所にやって来ますが、
なんと、
王太子シャルルは彼を暗殺してしまいます(1419年)。

ブルゴーニュ公第3代を継いだ
フィリップ善良公は、父親が暗殺されたことで
フランス王家との和解をやめて、再びイングランドと手を結んでフランス王家に対抗します。
イングランド・ブルゴーニュ連合 VS フランス王太子という構図です。




そうしたなか、1428年に、イングランド軍はフランス王太子シャルルを攻めるべく、
その重要な拠点のひとつであった
オルレアンを包囲したのです。



上の地図は1428年の時点での、イングランド・ブルゴーニュ連合の支配地域(灰色)と、
フランス王太子シャルルの勢力地域(赤)です。
そしてオルレアンは、青い線で囲ったところです。
ちょうど
王太子シャルルの支配地域の北端にあたります。
ここには川幅の広いロワール川が東西に流れています。
オルレアンには、そのロワール川を渡るための橋がかかっていました。

イングランド・ブルゴーニュ連合は、このオルレアンを落とせば、
一気に王太子シャルルが支配する赤い部分に攻め込むことが出来ます。
なんとしても、オルレアンを奪い取る必要がありました。

一方、フランス王太子シャルルの側からすると、このオルレアンが敵の手に渡れば、
一気に攻め込まれてしまいます。
これはまさに
「絶体絶命のピンチ」でした。



4.ジャンヌ・ダルクの登場                        
さて、ようやく
ジャンヌ・ダルクの登場です。
ジャンヌは、1412年にロレーヌ地方の
ドンレミ村(Domrémy)の農家で生まれました。
上の地図の赤い星印で示したところがドンレミ村です。
3人の兄と1人の姉がいました。
ジャンヌが生まれ育った家は、今もドンレミ村に保存されています。

  
平和でのどかなドンレミ村。今の名前は「ドンレミ・ラ・ピュセル」(ラ・ピュセルとは「乙女」という意味)

  
              ドンレミ村のジャンヌの家とジャンヌの部屋(2005.8.20)

ジャンヌは、ロレーヌの片田舎の何の変哲もない農家の女の子でした。
何事もなければ、そのままこの田舎で普通の農家の女として
平凡な一生を過ごしていったことでしょう。
しかし1425年、13歳になっていたジャンヌは、初めて
「声」を聞きます。
聖女カトリーヌ、マルグリット、大天使ミカエルの声であったといいます。
この
「声」を聞いたことが、彼女をロレーヌの片田舎から歴史の表舞台に押し出し、
ついには
フランスを救う「救世主」への道を歩ませることになります。


ジャンヌの前に現れた大天使ミカエルと聖女たち


ジャンヌは何度かこの「声」を聞きます。
この「声」は、ヴォークルール(Vaucouleurs、ドンレミ村の北約10キロ)の
守備隊長ロベール・ド・ボードリクールに会いに行き、
イギリス軍による
オルレアンの包囲を解いてフランスを救えというものでした。

  
大天使ミカエルとジャンヌ(Musée de Souvigny, 2018.9.29)  森の中のジャンヌ。酒見・近藤『ダーク』より


当時のヴォークルールは、ブルゴーニュに近いのに、フランス王家に味方する場所でした。
1428年5月、ジャンヌは「声」に従って
ヴォークルールの守備隊長ロベール・ド・ボードリクールに会いに行きますが、
最初は門前払いでした。
どこかの頭のおかしい女の子が訳の分からないことを言いに来た、程度の印象だったのでしょう。
しかしさらに翌年、ジャンヌは再びヴォークルールを訪れます。
人々の間でも、ジャンヌが「声」を聞いたという話を信じる者が多くなっていました。
1429年2月、とうとうボードリクールは、ジャンヌに男装をさせ、護衛の准騎士を付けて
王太子シャルルのいるシノンに向かわせます。

ジャンヌ、
17歳の時のことでした。

本日は前半と後半には分けていないので、これで終わりです。
次回(第14回)は、「百年戦争とジャンヌ・ダルク」第2回目
(オルレアン解放からルーアンでの火刑まで)です。

      
       
ジャンヌ。酒見・近藤『ダーク』より


 今回は、小レポートその他の提出物はありません。

★次回は6月14日(月)の午前中(11~12時頃)に、第17回目の授業内容を
 このサイトにアップします。
 
http://wars.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。

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【本日の授業に関する参考文献】
大谷暢順『聖ジャンヌ・ダルク』中公文庫、1998年。
大谷暢順『聖ジャンヌ・ダルク』中公文庫、1998年。
酒見賢一・近藤勝也『D'arc ~ジャンヌ・ダルク伝(1)』徳間書店、1995年。
佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社新書、2003年。
佐藤賢一「オルレアン攻防戦」『歴史群像グラフィック戦史シリーズ/戦略・戦術・兵器事典5
          /ヨーロッパ城郭編』学習研究社、1997年6月。
清水正晴『ジャンヌ・ダルクとその時代』現代書館、1994年。
竹下節子『ジャンヌ・ダルク 超異端の聖女』講談社現代新書、1997年。
堀越孝一『ジャンヌ=ダルク』朝日文庫、1991年。
村松剛『ジャンヌ・ダルク』中公新書、1967/1992年。
ジャン=ポール・エチュヴェリー『百年戦争とリッシュモン大元帥』
                大谷暢順訳、河出書房新社、1991年。
アンドレ・ボシュア『ジャンヌ・ダルク』新倉俊一訳、文庫クセジュ、白水社、1969/1991年。
ジュール・ミシュレ『ジャンヌ・ダルク』森井真・田代葆訳、中公文庫、1987/1994年。
レジーヌ・ペルヌー『ドキュメンタリー・フランス史/オルレアンの解放』
                      高山一彦訳、白水社、1986年。
レジーヌ・ペルヌー『ジャンヌ・ダルクの実像』高山一彦訳、文庫クセジュ、白水社、1995年。
BONNET, Laurent, Jeanne d'Arc, Éditions Ouest-France, 2005.
BONNET et BLANCHARD, En chemin avec Jeanne d'Arc, Ouest-France, 2004.
CURRY, Anne, The Hundred Years' War, 1337-1453, Osprey, 2002
Le Figaro, hors-série, 2011-11, Jeanne d'Arc, Le mythe-La légende-L'histoire.
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