ヨーロッパの戦争と文明/第01回(4月12日・月曜3限)/その2・ガイダンス後半
(第01回・ガイダンス前半からの続き)
第1回目の後半では、この授業の内容について簡単に説明します。
①人間の文明の歴史と戦争の関わり
この授業は、授業名のとおり、
ヨーロッパにおける戦争と人間の文明の関わりについて、歴史的にたどっていきます。
(地域はあくまでも「ヨーロッパ」です。「アメリカ」地域については扱いません。)
シラバスにも記したように、戦争というものは、遙か昔から現在まで、長い人間の
文明の歴史の中で、たえず繰り広げられてきました。
そして人間の文明の生々しい「裏面」を形作ってきました。
文化や芸術といった、いわば文明の「表」を飾る華やかな舞台の裏側で、
政治や経済、宗教や民族などをめぐって、われわれ人間は、
いつもお互いに対立し、争い合ってきました。
文明の歴史や現実を理解するためには、華やかな表舞台だけを見ているだけでは不充分です。
例えばその時々の科学技術などは、真っ先に戦争に応用され使用されてきたし、
表舞台の文化や芸術さえもが、しばしば戦争と深く関わってきたのです。
文化や芸術は実は常に権力によって戦争に利用されてきたのでした。
現実の文明の姿をとらえるためには、人間が繰り返してきた戦争についての考察が必要不可欠です。
この授業では古代から現代まで繰り広げられてきたヨーロッパの戦争の歴史を振り返り、
それがヨーロッパ文明の発展・展開においてどのような意味を持つものであったのかを
考えていきたいと思っています。
②フランスがどうしても中心になってしまうということ
なお、ヨーロッパの歴史における戦争と言っても、
高校の時の世界史の教科書をちょっと見てもらえば分かるように、
数え切れないくらい、星の数ほどあります。
それらの全てをこの授業で取り上げるのはとても不可能というものです。
ですから、その中からいくつかのものを選ばなければならないのですが、
たまたま私の研究の専門分野がフランスの歴史や文化なので、
この授業で扱う戦争も、どうしてもフランスに関わるものが多くなってしまいます。
その点はどうかお許し下さい。
後半の近代を扱う部分では、ナポレオンの生涯と戦争について、
少し時間をかけることになります。
③世界史の知識について
また歴史の話なので、世界史の知識がある程度あった方が、理解がスムーズです。
高校時代の世界史の教科書が手元にあれば、それを読み返しておいて下さい。
ただ、中には高校時代に世界史は取らなかった、という学生もいるかと思います。
ですので、高校時代に世界史を全然やって来なかった人のために、
毎回背景となる歴史的な説明も入れていくようにします。
インターネットの、例えばウィキペディアなどを調べて、
関連する歴史的な知識を補うというのも大切なことです。
④軍事オタク的な話はしない
この授業では、いわゆる「軍事オタク」的な話とか、
「ミリタリー・マニア」的な話は期待しないようにして下さい。
「ナチスドイツの武装親衛隊の制服はああだこうだ」とか、
「このタイプの戦車の走行性能はああで装甲板の厚さは××ミリあって、機関砲の威力はこうだ」とか、
そういったオタク・マニア的なことについては、正直なところ私にはあまり知識がありません。
私などよりもうんと詳しい学生も少なくないのではないかと思います。
この授業の「戦争と文明」というタイトルだけを見て、
何かそういったオタク・マニア的な詳しい話が聞けるのではないかと期待する人が時々います。
残念ながらその期待には答えられません。
この授業では、あくまでも歴史と戦争の関わりに重点を置いています。
戦術や戦略という話は多少することになります。
「この部隊を、こうやって動かして敵の背後を突くとこうなる」みたいな話ですね。

⑤悲惨な話や画像が出てくる
話の性質上、どうしても人間の生き死にがメインとなりますから、
悲惨な話や残酷な画像がたくさん出てきます。
それでも古代や中世あたりの時代のものでは想像して描かれた絵とか、
フィクションの画像とかになりますが、
近代以降、特に第一次世界大戦や第二次世界大戦などの話の場合には、
戦場で撮影された実写の写真とかが出てきます。
そうした画像は、ちょっとインターネットで探せばいくらでも見つかる時代ですが、
それでも見ていて気持ちのいいものではありません。
そうした画像も授業資料に貼り付けたりすると思うので、
ちょっと覚悟はしておいて下さい。
⑥各回の簡単な説明
今回は第1回目のガイダンスなので、
以下では、第2回目以降の内容を簡単に説明しておきます。
(ここから下は、スマホでは少し文字が小さくなってしまうかも知れません。
その場合は適当に拡大して読んで下さい。)
| 第2回 古代/ギリシア・ペルシア戦争 紀元前5世紀に、古代ギリシアとアジアの大国アケネメス朝ペルシア帝国の間 で3度にわたって闘われたペルシア戦争を扱います。 紀元前490年のマラトンの戦いではアテナイ軍がペルシア軍に大勝利します。 紀元前480年のテルモピュライの戦いではギリシアのスパルタ軍が全滅します。 古代ギリシアの重装歩兵についても説明します。 |
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| 第3回 古代/アレキサンドロス大王の東征(その1) マケドニアの若き大王アレクサンドロスが弱冠22歳の時に開始したペルシア帝 国に対する征服戦争。紀元前331年のガウガメラの戦いの結果、 アレクサンドロスはペルシア帝国を滅ぼしてしまいます。 |
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| 第4回 古代/アレキサンドロス大王の東征(その2) ペルシア帝国を滅ぼしたアレクサンドロスはさらに東征を続け、カイバル峠を 越えて、ついにはインドにまで侵攻します。紀元前326年、戦象を擁する インド軍とアレクサンドロスは、インドのヒュダスペス河畔の戦いで激突します。 |
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| 第5回 古代/ローマ/ポエニ戦争とハンニバル(その1)/アルプス越え 地中海の海洋国家カルタゴとローマとの戦いをポエニ戦争と言います。 第2回 ポエニ戦争の時、紀元前218年の秋、カルタゴの名将ハンニバルが イベリア半島から象を引き連れて数万の兵と共にアルプスを越えて 北からイタリアに侵入します。 ローマの意表を突いたこのハンニバルのアルプス越えについて扱います。 |
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| 第6回 古代/ローマ/ポエニ戦争とハンニバル(その2)/カンナエ(カンネー)の戦い アルプスを越えたハンニバル率いるカルタゴ軍は、トラシメヌス河畔の戦いで ローマ軍を破り、さらに紀元前216年、イタリア半島南部のカンナエ(カンネー)において、 8万の兵力であったローマ軍を完璧な包囲戦術で壊滅させます。 ハンニバルの見事な包囲戦についてお話しします。 |
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| 第7回 古代/ローマ/カエサルのガリア征服戦争・アレシアの攻囲戦 ローマは紀元前1世紀にガリア(およそ後のフランスにあたる地域)の征服戦争を繰り広げます。 それを遂行したのはローマの英雄カエサル(シーザー) です。 紀元前52年に、ヴェルキンゲトリクスをリーダーとしてガリアの 土着部族連合の最後の抵抗が行われ、 カエサルはアレシアの地でこれを粉砕しました。 このアレシアの攻囲戦について説明します。 |
カエサル |
| 第8回 古代/ローマ軍の軍事力と戦術 古代世界における最強の軍隊を保持し、地中海とヨーロッパ地域を征服して 大帝国を築いたローマ軍について説明します。 鉄の規律と組織力、その結果 発揮された比類のない軍事力の秘密について考えます。 |
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| 第9回 古代/ブリタニアのローマ軍(2~5世紀) ローマ帝国はアフリカ北部からヨーロッパまで広大な領域を支配しましたが、 ヨーロッパ大陸を越えて今のイングランド(イギリス)まで属州として 支配していたことは意外と知られていません。 「最果てのローマ帝国」などと呼ばれ たりします。 この最果ての地に駐留していたローマ軍の兵士たちの軍務や生活などについて説明します。 |
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| 第10回 中世/騎士とは何か ヨーロッパの中世は騎士の活躍した時代です。 鎧を身につけて馬に乗って戦場を駆け巡って敵と戦うといったイメージです。 中世は、封建的な身分制度ががっちり固定された時代ですが、 騎士は支配階級・貴族に含まれます。 騎士たち の「お仕事」は、城に住み、領民を支配し、主人に忠誠を誓い、 日常的に戦争をすることでした。 こうした騎士たちの世界を見てみます。日本の「武士」との比較もしたいと思います。 |
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| 第11回 中世/城郭の歴史 騎士たちが活躍した中世は、城塞の時代でもありました。 ヨーロッパの中世というと、なんと言ってもお城のイメージではないでしょうか。 中世も初めの頃は、木造の簡素な城でしたが、11世紀頃から石造りの城に変わっていきます。 13世紀には王侯貴族・領主たちの支配拠点となる強固な軍事要塞となっていき ます。 そうした中世の城の世界を見ていきます。また日本の城との比較も行いたいと思います。 |
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| 第12回 中世/ヴァイキングの来襲とノルマン・コンクエスト 8世紀頃からはノルマン人(ヴァイキング)のヨーロッパ略奪が始まります。 北フランスに領土を与えられて定着したノルマン人のノルマンディー公ウィリアムが、 イングランドを征服することになった1066年のヘイスティングス の戦いを取り上げます。 この戦いの様子は「バイユーのタペストリー」に描かれて今日にまで伝えられています。 |
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| 第13回 中世/十字軍の歴史 ヨーロッパでは11世紀末から、聖地イェルサレムをイスラム教徒から奪還するという名目で、 中東地域に何度も十字軍遠征が行われました。宗教的情熱と領土的野心が入り交じった侵略戦争です。結局あまり成果もなくむなしく終わってしまいました。 |
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| 第14回 中世/騎士団の世界 十字軍遠征において、重要な役割を果たしたのが騎士団でした。授業ではテンプル騎士団・聖ヨハネ(マルタ)騎士団を取り上げます。テンプル騎士団は単に戦う戦士の集団であるだけではなく、今でいう旅行業から銀行業のようなことまで行って組織を拡大させます。あまりに強大になったためにフランス国王によって滅ぼされました。聖ヨハネ(マルタ)騎士団は、病院を作って巡礼たちに医療を施しました。この騎士団は医療団体として今でも存続しています。 |
←テンプル騎士団 |
| 第15回 中世/異端カタリ派とアルビジョワ十字軍 十字軍は、なにもイスラームなどの「異教徒」に対して行われただけではありません。同じヨーロッパのキリスト教の「異端」に対しても行われました。中世で有名な異端に南フランスが拡大した「カタリ派」がいます。極端な善悪二元論や世俗否定の思想で知られています。十字軍は徹底的にカタリ派を弾圧し、彼らは最終的に13世紀に撲滅されます。 |
←火刑になるカタリ派 |
| 第16回 中世/英仏百年戦争とジャンヌ・ダルク(その1) 百年戦争で劣勢にあったフランスを、ひとりの少女が救います。 有名なジャンヌ・ダルクです。 17歳のジャンヌは、天の声を聞いてフランスを救うべく立ち上がります。 前半では彼女の生い立ちと、彼女が聞いたという「声」、 そして生まれ故郷のドン・レミ村からフランス王太子に会うべく シノンの城に向かうまでをたどります。 |
←ジヤンヌ・ダルク |
| 第17回 中世/英仏百年戦争とジャンヌ・ダルク(その2) 1429年にオルレアンの街をイギリス軍の包囲から解放したジャンヌは、 王太子をランスにおいてフランス国王シャルル7世として戴冠させます。 しかしその後、イギリス・ブルゴーニュ軍によって捕らえられ、 1431年ルーアンにおいて火刑に処せられました。 この回では、ジャンヌによるオルレアン解放戦を詳しく説明します。 |
←ルーアンで火刑になるジャンヌ |
| 第18回 近代/ナポレオンの生涯(その1)/誕生からブリュメール18日のクーデターまで この回からはフランスの英雄ナポレオンの生涯をたどります。 コルシカの貧乏小貴族のもとに生まれたナポレオンは、早くからその才能を発揮し、 フランス革命勃発後は、トゥーロンをイギリス軍から奪還することで台頭し、 第1回イタリア戦役(1796年)、エジプト遠征(1798年)をへて、 クーデターにより政権を奪取します。 |
←アルコレ橋のナポレオン・ボナパルト |
| 第19回 近代/ナポレオンの生涯(その2)/第2回イタリア戦役とフランス皇帝戴冠まで 1800年5月、ナポレオンは、4万の兵と、アルプスのスイス・イタリア国境である グラン・サン・ベルナール峠(2469m)を越えて、北イタリアにいるオーストリア軍を急襲し、 マレンゴの戦いで勝利を収めました。 1804年12月にはパリのノートルダム大聖堂においてフランス皇帝に戴冠しました。 この回ではナポレオンのアルプス越えや皇帝戴冠などを詳しく説明します。 |
←アルプスを越えるナポレオン |
| 第20回 近代/ナポレオンの生涯(その3)/ウルム・アウステルリッツの戦い 1805年のアウステルリッツの戦いは、 オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ帝国皇帝としてはフランツ2世)、 ロシア皇帝アレクサンドル1世、フランス皇帝ナポレオン1世の、 いわゆる「三帝会戦」と言われています。 ナポレオンが兵力で圧倒的に優位の敵(オーストリア・ロシア連合軍)に 見事に勝利した戦いです。 |
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| 第21回 近代/ナポレオンの生涯(その4)/ロシア遠征から退位まで 1808年頃からフランス軍の敗北が始まります。 1812年、事態の打開を図り、ナポレオンはロシア遠征を強行します。 しかしこれは大失敗に終わり、結局ナポレオンは皇帝を退位することとなり(1814年)、 地中海のエルバ島に流刑となりました。 |
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| 第22回 近代/ナポレオンの生涯(その5)/エルバ島脱出から死まで 1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出しますが、百日天下をへて、 ワーテルローの戦いにおいて最終的に敗北し、今度は太平洋の孤島である セント・ヘレナ 島に流刑となり、そこで人生を終えることとなりました。 死後もフランスの英雄として、さまざまな「ナポレオン伝説」が生まれました。 |
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| 第23回 現代/第1次世界大戦(その1) ナショナリズムが高ずるなか、ヨーロッパ列強は世界を巻き込む形で、 衝突してゆきます。1914年に勃発した第1次世界大戦は、 史上例を見ない規模での「大量殺戮と大量破壊の戦争」であると言われています。 世界が第1次世界大戦に向かって進んでゆく歴史的背景と、 その勃発の経緯について考えます。 |
←ドイツ軍参謀総長シュリーフェン |
| 第24回 現代/第1次世界大戦(その2)/戦争の経過と塹壕戦の現実 第1次世界大戦を戦った兵士たちの戦場は「塹壕」(ざんごう)でした。 機関銃や大砲、戦 車、毒ガス、飛行機など、最新の技術が次々と戦場に投入されました。 銃弾や砲弾が 絶え間なく降り注ぐ塹壕戦によって、 膨大な数の兵士たちが命を落としました。 塹壕戦は兵士たちにとって、まさしく地獄の修羅場であったのです。 |
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| 第25回 現代/第2次世界大戦(その1)/フランス侵攻電撃作戦(1939年) 1939年、ヒトラーのナチス率いるドイツは、ポーランドを攻撃し、 第2次世 界大戦が始まりました。イギリスとフランスはドイツに宣戦布告しますが、 ド イツ軍はマジノ戦を突破してフランスに電撃的に侵攻し、 ほどなくフランスは ドイツに降伏することとなります。 ドイツのフランス侵攻作戦とダンケルクの撤退などについて説明します。 |
←アドルフ・ヒトラー |
| 第26回 現代/第2次世界大戦(その2)/ノルマンディー上陸作戦(1944年) 大戦開始後しばらくは劣勢に立っていたイギリス・アメリカなどの連合軍は、 1944年6月のノルマンディー上陸によって攻勢に転じます。 多くの犠牲者を出しながら、連合軍はフランス北部に足場を築き、 1944年8月にはパリが解放さ れました。 この「史上最大の作戦」について詳しく見ることにします。 |
←ノルマンディー上陸作戦 |
| 第27回 現代/第2次世界大戦(その3)/オラドゥールの悲劇(1944年) ノルマンディーで連合軍の上陸作戦が行われた1944年6月10日、 フランス中西部にある小さな村オラドゥール・シュル・グラヌで、 ナチスの武装親衛隊が村人のほぼ全員である600人を虐殺するという事件が起こりました。 老いも若きも男も女も、そして幼い子供たちまで殺されました。 この悲惨な事件の経過と、その後の顛末について説明します。 |
←廃墟と化したオラドゥール |
| 第28回 現代/第2次世界大戦(その4)/ホロコースト、ヒトラー野望とその最期 第2次世界大戦中、ナチスは占領下の地域でユダヤ人抹殺のための ホロコーストを引き起こしました。 数百万人のユダヤ人が虐殺されたと言われています。 このホロコーストとは何であったのか、ヒトラーの野望はどのようなものであったのか、 そしてヒトラーの最期について取り上げます。 |
←強制収容所に移送されたユダヤ人 |
※なお最後に、授業計画としては全部で28回の予定を記載しましたが、
これらすべての内容を取り上げることが出来ないかも知れません。
上に記した計画はかなり変わるかも知れませんので、
そのことはあらかじめ承知しておいて下さい。
| 今回は、小コメントやその他の提出物はありません。 |
| 次回は4月15日(木)の午前中(11~12時頃)に、第2回目の授業内容をこのサイトにアップします。 http://wars.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。 |
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また小コメントや最終レポートも、やはりメールで送って下さい。
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