ヨーロッパの戦争と文明
第13回(5月31日・月曜3限)/十字軍とその歴史     
(※ページの画像がうまく読み込まれない場合は、「再読込み」するとちゃんと表示されると思います)

★今回は、前半と後半には分かれていません★


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【年表】
1096-1099年  第1回十字軍(1099年にイェルサレム占領)
1147-1148年  第2回十字軍(帝王十字軍とも呼ばれる)
1189-1192年  第3回十字軍(サラディンに敗北、イェルサレム陥落)
1202-1204年  第4回十字軍(コンスタンティノープルの占領とラテン帝国を建国)
1217-1221年  第5回十字軍(エジプト・カイロ攻略失敗)
1228-1229年  第6回十字軍(あるいは第5回十字軍。イェルサレム統治権獲得)
1248-1249年  第7回十字軍(フランス国王ルイ9世が捕虜となる)
1270年     第8回十字軍(フランス国王ルイ9世、遠征途上で死)
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


1.十字軍とは                            
「十字軍」(英語:Crusade/仏語:Croisade/独語:Kreuzzug)とは、
ヨーロッパのカトリックの国々が、聖地イェルサレムを
イスラームから奪回することを目的として派遣した遠征軍のことです。

キリスト教の異端討伐軍を指す場合もあります(例えば13世紀に南フランスで広がった
異端カタリ派を討伐した軍のことを「アルビジョア十字軍」と呼びます)。

十字軍は、1096年から1270年まで、
約170年の間に8回にわたって行われました。
数え方によっては7回とか9回とかと見る見方もあるし、
ちゃんとした回数に含まれないけれども小規模なものが行われたりもしました。
その中でも有名なのは、
1212年の子供十字軍(少年十字軍)で、参加したのは平均年齢およそ
12歳前後の少年少女1~2万人でした(実際は子供たちを多く含む庶民たちだったとも)。
かわいそうに、途中で奴隷商人に引っかかって
奴隷としてみんな売り飛ばされてしまいました。



聖地イェルサレム(エルサレム)は、
今のイスラエルの都市です(首都かどうかはいまだに国際社会でモメています)。
上の地図の右端の赤い星印のところです。いわゆる「中東」です。
ではイェルサレムには何があるのでしょうか。なぜそこは「聖地」なのでしょうか。

答えは簡単で、そこは
イエス・キリストが処刑された場所であり、
また
イエス・キリストの墓があるのです。
イエスの墓のある教会を
「聖墳墓教会」といいます。


イェルサレム・ゴルゴダの丘でのイエス・キリスト(中央)の処刑。


 
イェルサレムの聖墳墓教会。内部は丸い形をしている。

イェルサレムは、古代ユダヤ王国の「イェルサレム神殿」があったことから、
ユダヤ教の聖地でもあり、
同時に「アル=アクサー・モスク」や
「岩のドーム」などがあって、イスラームの聖地ともされています。

中世のイェルサレムの様子

そのようなわけでイェルサレムは、
キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の
3つの宗教の聖地なのです。
しかも、ここは7世紀(600年代)前半期から、イスラーム帝国の支配下にありました。
キリスト教のヨーロッパ諸国にとっては、許しがたいことだったのです。

中世の間、それでもはるばるヨーロッパ諸国から、
イェルサレムに行く巡礼が数多くいました。
彼らはイスラーム(アラブ人)が支配するこの街にはるばるやって来て、
キリストの墓のある聖墳墓教会を訪れました。


聖地イェルサレムへ向かうヨーロッパの巡礼者たち
先頭で巡礼たちを率いるのはキリスト教の聖職者。



下の絵はイェルサレムに着いたヨーロッパの巡礼たちです。
よく見ると、中央に管理人であるアラブ人が3人いて、
巡礼たち(左にいる3人)は、この管理人に
聖墳墓教会の入場料を支払っていますね。
一番右側のアラブ人の管理人は、聖墳墓教会の扉の鍵をジャラジャラと持っています。
絵の右端が聖墳墓教会です。そこに置かれているイエス・キリストの棺桶(石棺)は
中がカラッポです。
それもそのはず、イエスは処刑された後、
3日後に墓の中から「復活」したのですから。

イェルサレムを訪れるヨーロッパの巡礼たち


2.十字軍の始まり                           

さて、1095年11月、フランスのクレルモンという街で開かれた教会会議の席上、
ローマ教皇ウルバヌス2世が、集まった聖職者や騎士たちに対して
聖地をイスラームから奪回する呼びかけを行います。

クレルモン教会会議で十字軍を呼びかける教皇ウルバヌス2世(中央奥の演壇の上)

かくして第1回十字軍以来、何度にもわたって繰り返し、
ヨーロッパから騎士たちによる軍事遠征が行われます。
これらの十字軍すべてを説明する余裕はないのですが、
それなりの成果を挙げたのは、最初の第1回の時に

イェルサレムを占領
できたことくらいでしょうか。

  
進軍する十字軍の騎士たち                 アンティオキアを攻める十字軍(1097年)


第1回十字軍は、フランスと南イタリアのノルマン人の諸侯・騎士から編成されました。
小アジア(今のトルコ)・シリア地方のセルジューク朝領の諸都市を攻略しました。
その後、ファーティマ朝支配下のイェルサレムを占領。
この十字軍によって、エルサレム王国、エデッサ伯国、アンティオキア公国といった
キリスト教徒の国が建国されました。
下の絵は、占領したイェルサレムで、聖墳墓教会に戦利品を奉納する十字軍兵士たちです。

Granet画/聖墳墓教会にアスカロンの戦利品を納めるGodefroy de Bouillon


さてしかし、こうした成果と同時に、十字軍は聖地奪回という聖なる名目の下で、
あちこちで
アラブ人の虐殺を繰り広げました。
第1回十字軍の際のアンティオキア包囲戦(1097年)、イェルサレム占領(1099年)の際の
大虐殺は有名です。イェルサレム占領の時には老若男女7万人を殺したそうです。
しかも、十字軍兵士たちは、街にいた人間は、
イスラーム教徒であろうがキリスト教徒であろうが、
女であろうが、子供であろうが、みさかいなく
片っ端から殺したと言われています。


アンティオキアの虐殺(1097年)


イェルサレム占領と大虐殺(1099年)中世の写本から。 虐殺によって赤い血の川が流れ出ている。


十字軍は、イスラーム(アラブ人)の側からすれば、
迷惑この上ない話です。
ある日突然、宗教的熱狂に取り憑かれて武装したヨーロッパ人が、大挙してやって来て
あちこちの街を襲い、片っ端から殺す。
しかも彼らはそれを
「聖なる正義」だと信じて疑わない。
まぁ、戦争なんていつもそんなものかも知れないのですが、
それにしても、これら十字軍の時の対立が、21世紀の今日まで、
西洋世界(キリスト教)とアラブ世界(イスラーム教)の対立となって、
その後1000年もの間ずっと続いているのです。


十字軍での
キリスト教会(聖職者)が果たした役割も見逃せません。
そもそも十字軍を呼びかけたのはキリスト教会でした。
宗教的「熱情」と宗教的「狂信」は紙一重、と言うか、しばしば同じになってしまいます。

下の絵は、左がアンティオキア攻囲戦、右がイェルサレム攻撃です。
共に、キリスト教の聖職者たちが、十字軍兵士を奮い立たせ、鼓舞しています。
「さぁあの街を奪い取るのだ! それが神の栄光をいや増すことになるのだ!
アラブ人たちを血の海に沈めるのだ!!」

  
アンティオキア攻囲戦(1097年)         イェルサレムへの攻撃と占領(1099年)
                         中央少し左上の茶色い衣装を着て旗を持っているのは修道士(隠者)ピエール。



3.フランス国王ルイ9世の十字軍                  
その後、十字軍は何度も行われますが、次第に成果よりも失敗・敗北が多くなります。
第3回十字軍の時には、
イスラームの英雄「サラディン」にコテンパンにやられたりします。
第7回の時は、こともあろうに
フランス国王ルイ9世自身が、
イスラーム軍の捕虜になったりします。
このルイ9世というのは、かなり十字軍に対する熱狂に取り付かれた国王だったようで、
第7回(1248~1254年)と第8回(1270年)の2回の十字軍に出かけています。
第7回の時は、ドイツ皇帝もイギリス国王も内政に忙殺されていて参加できず、
フランス国王ルイ9世が主導する形で
2万のフランス騎士たちを率いてエジプトに向かいました。

十字軍に出発するフランス国王ルイ9位


ルイ9世が十字軍に出発した南仏の要塞港湾都市エグ・モルト(Aigues-Mortes)

しかしマンスーラの戦い(1250年2月)でアイユーブ朝イスラーム軍は十字軍側を壊滅させます。
1500以上の十字軍兵士が戦死し、1万の兵士が捕虜になったと伝えられています。
そのあと、同年4月のファリスクール(Fariskur)の戦いで、
ルイ9世は配下の多くの兵士たちと共にイスラーム側につかまって捕虜となりました。
そして莫大な身代金を支払って解放され、撤退したのでした。
かなり情けない話ではありますね。
 
イスラーム軍に捕虜になるフランス国王ルイ9世

しかしルイ9世はこの後も、こりずに第8回十字軍に行きます。
そしてとうとう遠征先の北アフリカ・チュニジアのチュニスで、
ペストにかかって死んでしまいました(1270年8月25日)。

ルイ9世の死

ルイ9世は、敬虔な人物で、カトリック教会のためにもさまざま尽力し、
フランス各地に貧者のための救貧院を作り、聖遺物を数多く集めて教会に収めました。
1236年にラテン帝国(東ローマ帝国のコンスタンチノープルを十字軍が
一時的に占領して建てた国)の皇帝ボードゥアン2世から
ルイ9世がイエス・キリストの茨の冠(荊冠)その他を大金をはたいて買い、
さらにそれを収めるために、パリに
サント=シャペル(Sainte-Chapelle)を建てた
というのは有名な話です。
パリのサント=シャペル


さらにまた2度もキリスト教の聖地回復のための十字軍を率いたりしたこともあって、
死後27年たった1297年にカトリック教会から「聖人」に列せられました。
そのためルイ9世は、
聖ルイ王(サン=ルイ/Saint Louis)と呼ばれるようになりました。
フランスではこの「サン=ルイ」の方がよく通ります。
ちなみにアメリカのセントルイス(Saint-Louis/ミズーリ州)の街の名は、
このルイ9世(サン=ルイ)から来ています。
「サン=ルイ」の英語読みですね。



さてヨーロッパによる十字軍は、13世紀後半にはすっかり下火となっていきます。
そして第9回十字軍(1271~1272年/数え方によっては第8回に入れる)をもって
無益な戦いに終始した十字軍遠征は結局終わりを迎えました。
最初は聖地回復という純粋な宗教的動機に基づいていたにもかかわらず、
その後は単なる領土的野心や権謀術数、みさかいのない略奪と虐殺など、
ドロドロとした戦争行為へと変わっていきました。
キリスト教のヨーロッパ(西洋)と、イスラームの対立と戦いは、その後も引き継がれ、
今日においても国際紛争に大きな影を落としています。
なお2001年に、時のローマ教皇ヨハネ=パウロ2世は、十字軍による虐殺について
公式に謝罪のコメントを出しています。


  
映画『キングダム・オブ・ヘブン』のサラディン           レッシング『十字軍兵士の帰還』
                                 疲れ果て、がっかり・グッタリして故郷に帰る。


 今回は、小コメントやその他の提出物はありません。

※次回の小コメントの提出は、第14回目の授業が終わったところで予定しています。

次回は6月3日(木)の午前中(11~12時頃)に、第14回目の授業内容を
このサイトにアップします。
 
http://wars.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【本日の授業に関する参考文献】

石川明人『キリスト教と戦争-「愛と平和」を説きつつ戦う論理』中公新書、2016年。
新人物往来社編『ビジュアル選書/十字軍全史-聖地をめぐるキリスト教とイスラームの戦い』
                                新人物往来社、2011年。
橋口倫介『十字軍-その非神話化』岩波新書、1974年。
山内進『十字軍の思想』ちくま新書、2003年。
山内進『北の十字軍-「ヨーロッパ」の北方拡大』講談社、1997年。
ジョルジュ・タート『「知」の再発見双書30/十字軍-ヨーロッパとイスラム・対立の原点』
                            池上俊一監修、創元社、1993年。
ニコラス・ベスト『秘密結社テンプル騎士団-謎に包まれた聖地の守護者』
                         五十嵐洋子訳、主婦と生活社、1998年。
テレンス・ワイズ『十字軍の軍隊』桂令夫訳、新紀元社、2000年。
FRIZOT, Julien, Les grands sites templiers en France, Ouest-France, 2005.
HUCHET, Patrick, Les Templiers de la gloire à la tragédie, Ouest-France, 2002.
KENNEDY, Hugh, Crusader Castles, Cambridge UP, 1994.
LEBÉDEL, Claude, Les Croisades, XIe-XIIIe siècle, Ouest-France, 2016.
Histoire antique et Médiévale, no.41, 2014-12.
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


オンライン授業「ヨーロッパの戦争と文明」の最初のページに戻る












中川研究室ホームページ/TOPページ