ヨーロッパの戦争と文明
第12回(5月27日・木曜3限)/ヴァイキングとノルマン・コンクエスト     

(※ページの画像がうまく読み込まれない場合は、「再読込み」するとちゃんと表示されると思います)

★今回は、前半と後半には分かれていません★

今回は、ヴァイキングの略奪と、ノルマン・コンクエストについて取り上げます。
今回は、横に長い画像をたくさん使うので、
パソコンでの閲覧を、いつもよりも特に推奨します。

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【年表】
700年代末頃~ 北欧スからヴァイキング(ノルマン人)がイングランドなどの略奪を始める。
840年頃~   ヴァイキング、フランスに侵入を始める。
856~857年  パリ左岸が略奪され、占領。
885年10月    パリのシテ島が700隻の船と3万人の兵に包囲される(約1年間)。
911年      西フランク国王シャルル3世、ノルマン人族長ロロをノルマンディー公に封ずる。
                             (ノルマンディー公領のはじめ)
1066年1月   イギリス国王エドワード死去。後継者争い起きる。
1066年9月   ノルマンディー公ウィリアム(ギヨーム)、イングランド王位を主張して侵攻。
1066年10月  
ヘイスティングスの戦いその後、イギリス北部を征服。
1066年12月  ノルマンディー公ギヨーム、イングランド国王ウイリアム1世として即位。
                     (ノルマン・コンクエスト。ノルマン朝の始め)
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1.ヴァイキング(ノルマン人)による西ヨーロッパ略奪          
古代が終わって中世前半の8世紀~9世紀頃、つまり西暦700年代~800年代にかけての時代は、
ヨーロッパはあちこちから異民族の侵入・攻撃にさらされます。
その代表格が、北から来襲するヴァイキング、南から侵入してくるイスラームです。

ヴァイキングは、歴史学では
「ノルマン人」と言います。
今の北欧(デンマーク、スウェーデン、ノルウェー)、すなわち今のスカンディナヴィア諸国
あたりから戦士たちが船に乗って来襲しました。
最初にターゲットになったのはイングランド(イギリス)でした。
その次はフランスです。

ある日突然、海の彼方から船団を組んでやって来て、
街と言わず、村と言わず、教会と言わず、修道院と言わず、
とにかく
片っ端から攻撃・略奪を繰り返すのです。
恐ろしいったらありませんでした。

彼らの船は、全長約20m、幅5mで、ヘサキとトモの部分に竜の彫刻を施し、
1隻あたり40~100人のヴァイキング戦士が乗り込んでいました。
外洋の航行は帆を張り、沿岸や内陸河川への侵入には、
機動性を増すために操船しやすいオール航行に切り替えました。
下の写真は、ノルウェーのオスローにある「ヴァイキング・シップ博物館」
に展示されている
発掘されたヴァイキングの船です。
右側の絵は、12世紀のフランスの写本に描かれたヴァイキングです。
船にビッシリと乗り込んで略奪のためにやって来る、
恐ろしいヴァイキングの様子がよく表されています。

 
発掘されたヴァイキングの船                 ヴァイキングの攻撃(1100年頃のフランスの写本)

   

上の左の写真は、ヴァイキングの戦士のコスチュームです。
鎖で作った鎧帷子(よろいかたびら)です。身につけるとすごく重そうです。
右の写真は現代のヴァイキングのイメージです。ただしこのヴァイキングおじさんが応援するのは、
アメリカン・フットボール「ミネソタ・ヴァイキングス」ですけど(笑)。
でもヴァイキングの強さと恐ろしさの感じは伝わってきますね。

さて、ヴァイキング(ノルマン人)は、こうして最初はイングランド、
その後はフランスにやって来ては、略奪を繰り返しました。
彼らは都市を略奪し、教会や修道院を襲って破壊し、宝物を奪いました。
フランスのオーセールという街の教会などは、ヴァイキングをだますために、
わざとニセの墓を作ったりしています。

下の地図の左側はイングランドに対するヴァイキングの攻撃、
右側はフランスへの攻撃・略奪の様子を表しています。
ヴァイキングは、フランスでは海から川をさかのぼって、

かなり内陸まで入り込んで略奪
しています。
  

最初に示した年表にもあるとおり、
856年からおよそ10年間、フランスではパリが攻撃され、
セーヌ川左岸(パリのシテ島の南側)が占領されています。
また885年には、パリの中心であるシテ島が、約1年間にわたって
700隻の船と3万人の兵に包囲されました。これは40年間で5回目でした。

パリのシテ島を包囲するヴァイキング(P. Velay, De Lutèce à Paris.)


あまりの被害にたまりかねた西フランク国王シャルル3世(在位893/898-923)
(当時はまだ「フランス」ではなく「西フランク王国」)は、911年、
キリスト教に改宗したヴァイキング(ノルマン人)の
族長ロロ(改名してロベール1世)に
フランス北部の「ノルマンディー地方」(下の地図の赤い部分)を与え、
ノルマンディー公に封じました。

おまえらに「ノルマンディー」の土地を正式に与えるから、
これ以上あちこちを荒らし回らないで、どうかそこにおとなしくしていてくれ、という感じですね。
「ノルマンディー公爵」は、
形の上は西フランク王国(フランス)の国王の臣下になります。
この後、ヴァイキングの活動(略奪)は次第に収まっていきます。
しかし、ノルマンディー公の力は強大であり続けました。






2.イングランド王位継承問題                    
さて、この頃イングランドは、ゲルマン系アングロサクソン人で
ウェセックス家の
エドワードが国王でした(在位1042~1066年)。
歴代のイングランド国王が戴冠式をすることになる
ウェストミンスター寺院を建設したことでも知られています。

エドワード懺悔王(在位1042-1066年)

このイングランド国王エドワードが1066年に死にます。
そうすると、その後を誰が継ぐのかという
後継者問題が噴出しました。

王位を主張したのは次の3人でした。
   死んだ国王エドワードの王妃の兄
ハロルド
   そのハロルドの弟
トスティ
   エドワードの従兄弟(いとこ)であった
ノルマンディー公ギヨーム(ウイリアム

そうです。ここでヴァイキングの子孫「ノルマンディー公」が出てくるのです。
ギヨームは1035年からノルマンディー公となっていました(生まれは1027年)。
イングランド国王エドワードの母が、彼の大叔母だったのです。
血筋が近かろうが、遠かろうが、構いません。
ごく細い親戚関係でも、それが少しでもあれば、
堂々と継承権を主張するというのが、
中世の封建制度では当たり前のように行われていたやり方でした。

しかし、まず
ハロルドが、有力な諸侯に選ばれてイングランド国王に即位します。
弟トスティはそれに異を唱え、ノルウェー王ハーラル3世と手を組んで蜂起しますが、
トスティは結局スタンフォード・ブリッジの戦い(1066年9月25日)でハロルドに破れ、
ノルウェー王と共に戦死します。
イングランド国王に即位するハロルド(2世)


3.ヘイスティングスの戦い(1066年10月14日)            
ハロルドは、ライバルを一人排除できたわけですが、
ほぼ同じ頃、1066年9月28日、今度は
ノルマンディー公ギヨーム(英語読みではウイリアム)が、
ハロルドの王位継承に異議を唱え、自分こそがイングランド王位継承者なのだと主張して、
フランスからイングランドに侵攻して来ます。
ハロルドにとっては「一難去ってまた一難」ですね。
ハロルドはスタンフォード・ブリッジからとって返して、今度はフランスからやって来る
ノルマンディー公ギヨームを迎え撃ちに行きます。


ノルマンディー公ギヨームの軍勢は、約12000。
半分は騎兵でした(総兵力6000とも8000とも諸説あり)。
イングランド南部の
ヘイスティングス(Hastings)に上陸し、
そこで南下してきたハロルドの軍7000と戦いました。

青はハロルドの動き。フランスからは海を渡ってノルマンディー公ギヨームがやって来る。


ヘイスティングスの戦いは、
1066年10月14日です。
結論から先に述べてしまうと、この戦いで
ノルマンディー公ギヨームがハロルドに勝利します。
ハロルドは戦闘中に右目に矢を受けて戦死しました。
ハロルド軍は総崩れとなって敗走しました。
ヘイスティングスの戦いののち、ギヨームはイングランド征服を続け、
1066年12月25日、ロンドンのウエストミンスター寺院で
イングランド国王ウイリアム1世として即位しました。

つまり、フランスではノルマンディー公として、フランス国王の臣下であるギヨームが、
なんとイングランドの国王になったのです。
逆に言うと、ウイリアム(ギヨーム)は、
イングランド国王であると同時に、
フランスではノルマンディー公として、
形の上ではフランス国王の臣下なのです。
なんとも複雑ですね。

   
征服者ノルマンディー公ギヨーム          ノルマン・コンクエストを描いたフランスの歴史マンガ



さてこのノルマンディー公ギヨーム(ウイリアム)のイングランド征服のことを
「ノルマン・コンクエスト」と言います。
ヴァイキング(ノルマン人)の末裔によるイングランドの征服です。

ノルマンディー公ギヨームとその臣下たちは、
フランスからイングランドに遠征して征服しました。
言わば
フランス人がイングランドを征服して王家を立てたということになります。
なので、ロンドンの宮廷やイングランドの新しい支配者層は、
みんな
フランス語を話し、フランス文化ドップリでした。
宮廷で英語が話され、文学作品が英語で書かれるようになるのは、
それからかなり後のことになります。

ちなみに、ギヨームやその有力家臣たちも、イングランドを征服したからと言って、
自分たちがイングランド人(イギリス人)になったなんていう意識はあまりありませんでした。
自分たちはあくまでフランス人で、海の向こうにちょっとしたオマケの領土を獲得した、
程度の意識だったと言われています。
イングランド国王になったギヨーム本人でさえ、
その後の生活の中心は相変わらずフランスのノルマンディーで、
死んだ後のお墓も、ノルマンディー(カーンと言う街)にあるくらいです。



4.バイユーのタピスリー(Tapisserie de Bayeux)           
ノルマンディー公ギヨーム(ウイリアム)が勝利した「ヘイスティングスの戦い」を
詳細に描いたタピスリー(タペストリー/織物)が、
北フランスのバイユー(Bayeux)の美術館に保存されています。
ギヨームがイングランドを征服した直後に、彼の異父弟でバイユー司教のオドンが
作らせたものと言われています。
11世紀(西暦1000年代後半)の作品です。
幅50センチ、
長さがなんと63メートルもあります。
以下では、その中から、上でたどってきたストーリーに沿って、
いくつかの場面を見ていきましょう。


①イングランド国王エドワードの死。



イングランド国王
エドワード(懺悔王)の死の場面です。
画面の上半分では、エドワードが最後の遺言を臣下たちに伝えています。
下半分では、亡くなったエドワードの遺体を布にくるんで埋葬の準備をしています。
画面の一番上に「EADWARDUS:REX」とありますが、この「EADWARDUS」は
エドワード、そして
「REX」とはラテン語で「国王」という意味です。



②ハロルドが国王となる。



エドワードの死の後、有力諸侯に推されてイングランド国王として戴冠します。
戴冠式において、家臣が剣をハロルドに差し出しています(左)。
ハロルドは右手に王杖、左手には十字架が付いた
丸い地球儀(王権のシンボル)を持っています。また王冠をかぶっています。
ハロルドの左側には
「REX」とありますね。



③ノルマンディー公ギヨーム、イングランド侵攻の準備をする。



大陸側のフランスから英仏海峡を越えて、軍隊を引き連れてイングランドに渡るには、
たくさんの船が必要です。
この場面では、木を切り出して、
船を建造する様子が描かれています。



建造した船に、さまざまな軍事物資を積み込んでいる様子です。
左側から、鎧や剣、カブトなどを船に運んでいます。
中ほどの荷車には、槍やカブトが並べられており、荷車には大きな樽も積んであります。
これはもちろんワインです。
戦争に行くにもワインは必需品です。
さすがフランスの人間ですね(笑)。



④ノルマン軍、イングランドに渡る。


兵士や武器を積んだ船団は、フランスからイングランド向けて出帆します。
風も順調に吹いて船の帆が膨らんでいます。
船には兵士と共に、
馬がズラリと並んでいます。


イングランドに上陸です。
帆をたたみ、馬も船から降ろします。
よく見ると、手前の馬の左の後ろ足がまだ船に残っているあたり、描写が細かいですね。



⑤ヘイスティングスの戦い・攻撃開始。


ギヨームのノルマン軍の騎兵は、
隊列を組んで前進します。
前(絵の右側)の方から順に、攻撃に入るために駆け出します。



そして一斉に敵(ハロルド軍)に向けて走り出します。
右端には、弓を持った歩兵(弓兵)がいます。


ノルマン軍の騎兵(左)は、ハロルドの歩兵(右)に向けて突撃します。
槍や矢が双方から飛び交っています。
右の下の方には、倒れた兵士たちが横たわっています。



迎え撃つハロルド軍も負けてはいません。槍や矢でギヨームの軍の騎兵を倒していきます。
馬がもんどり打ってひっくり返る様子がリアルです。
画面に下には倒れた兵士や馬が横たわっています。



激戦が続く中で、ノルマンディー公ギヨームが
戦死したというウワサ
ノルマン軍の中を駆け巡ります。
ギヨームは、そのウワサを打ち消すべく、かぶっていた兜(カブト/ヘルメット)を脱いで、
味方の兵士たちに自分の顔を見せます(上の絵の中央)。そして兵士たちを鼓舞します。
「ホラ、オレはちゃんと生きてるぞ。さぁ隊列を建て直して、もう一度突撃だぁ!!」



⑥ハロルドの死とギヨームの勝利。


ハロルド軍の一部が、突出して(深追い)して丘を下り(ギヨーム軍が退却を偽装したとも言われます)、
逆にギヨーム軍に取り囲まれました。
ここでハロルド軍の陣形が崩れ、そこに一気にギヨーム軍がなだれ込みます。
この戦闘中、
ハロルドは右目に矢を受け、ほどなく戦死しました。
総司令官である国王の死によって
ハロルド軍は総崩れとなり敗走しました。
上の絵では、中央にいるハロルドの目に矢が刺さっています。
下の方には、戦死した兵士の死体から、
よろいを剥ぎ取る様子が描かれています。
これもまたリアルですね。

かくしてヘイスティングスの戦いは、ノルマンディー公ギヨーム(ウイリアム)の勝利に終わり、
彼はイングランド国王ウイリアム1世となります。
イングランドのノルマン王朝の始まりです。

  
ギヨーム(ウイリアム)のイングランド王戴冠      『征服者ウイリアムとヘイスティングスの戦い』Pitkin出版



本日は前半と後半には分けていないので、これで終わりです。
次回(第13回)は、十字軍の話です。


 今回は、小コメントやその他の提出物はありません。

※次回の小コメントの提出は、第13回目の授業が終わったところで予定しています。

次回は5月31日(月)の午前中(11~12時頃)に、第13回目の授業内容を
このサイトにアップします。
 
http://wars.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。

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【本日の授業に関する参考文献】

青山吉信編『世界歴史大系/イギリス史1-先史~中世』山川出版社、1991/1995年。
青山吉信ほか編『イギリス史研究入門』山川出版社、1973年。
佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社新書、2003年。
グウィン・ジョーンズ『ヴァイキングの歴史』笹田公明訳、恒文社、1987年。
ジェフリー・リーガン『ヴィジュアル版「決戦」の世界史-歴史を動かした50の戦い』
                         森本哲郎監修、原書房、2008年。
ジャクリーヌ・シンプソン『ヴァイキングの世界』早野勝巳訳、東京書籍、1982年。
ヒースマン姿子『世界の考古学11/ヴァイキングの考古学』同成社、2000年。
アンドレ・モロワ『英国史(上)』水野成男・小林正訳、新潮文庫、1958/1993年。
リッチ&スタンフィールド『ノルマンディー歴史紀行-1833年スケッチ集』
                         幸田礼雅訳、新評論、1991年。
ANGLADE, Pierre, dir., À la découverte des plus belles routes Normandie,
                                 Minerva, 1996.
ST JOHN PARKER, Michael, Guillaume le Conquérant et la Bataille de Hastings,
                              Pitkin Guides, 1996.
ST JOHN PARKER, Michael, William the Conqueror and the Battle of Hastings,
                               Pitkin Guides, 1996.
VELAY, Philippe, De Lutèce à Paris, L'île et les deux rives, CNRS Éditions, 1992.
Les Vikings en France, Dossiers d'Archéologie, no.277, 2002-10.

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