オンライン授業/ヨーロッパの戦争と文明
第9回(5月13日・木曜3限)
/最果ての地ブリタニアのローマ軍    
(※画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込みすると表示されると思います)
★今回は、前半と後半には分かれていません★

★★本日は、授業の後で小レポートの提出があります。
              詳細はこのページの最後に記しています★★


本日は、属州ブリタニアのローマ軍についての話をします。

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【年表】
紀元前55・54年 カエサル、ブリタニアに2度の遠征。
紀元40年     皇帝カリグラ、ブリタニア遠征の企て。
紀元43年     皇帝クラウディウスのブリタニア遠征。
        ローマ属州ブリタンニアの成立。
紀元60年頃   イケニ族の女王ボウディッカの反乱。
紀元77(or 78)年~84(or 85)年 
        グナエウス・ユリウス・アグリコラ属州総督時代。
紀元122年~   ハドリアヌスの長城建設開始。
紀元142年    アントニヌスの長城建設(~144年)。
紀元164年    アントニヌスの長城放棄。
紀元208年~   皇帝セプティミウス・セウェルス、ブリタンニア遠征。
紀元3世紀末~4世紀前半 
        ローマのブリタンニア支配が終わる。
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①ローマによるブリテン島の征服と属州ブリタンニアの成立    
「ブリテン島」(あるいはブリタニア)というのは、
言うまでもなく、今のイギリスのことです。
古代ローマ帝国というと、地中海地域やガリア、ゲルマニアなどの
大陸側のことばかり考えがちですが、今の英仏海峡の向こう側にある「ブリテン島」も、
しっかりとローマ帝国の支配下にありました。

下の地図は高校世界史の教科書の地図です。
皇帝トラヤヌス(在位98-117年)の時に最も領土が広くなったローマ帝国を表しています。
ブリテン島(イギリス)は、赤い矢印で示したように、
この広大なローマ帝国の中では、最も北の端に位置しています。
しかも海(英仏海峡)を渡った向こう側です。
首都ローマから見ると、まさしく
「最果ての地」ですね。
『海の彼方のローマ帝国』(南川高志著)というタイトルのついた本まであるくらいです。


 東京書籍『世界史A』より


このブリテン島がローマの支配下に入っていくプロセスを簡単に追っておきましょう。

この「最果ての地」に最初に侵攻したのは、
カエサルでした。
彼は紀元前55年と54年の2度にわたってブリテン島に渡っています。
しかしこれは本格的な征服戦争ではなく、少し土着部族と戦った程度で、
ほどなく大陸に引き上げています。

悪名高い
皇帝カリグラ(在位37-41年)は、紀元40年にブリテン島への遠征を企てますが、
今の北フランスのブーローニュまで来て引き返しています。
彼は41年に自分の護衛隊長らによって暗殺されました。

本格的なブリテン島征服を行ったのは、
ローマ帝国
第4代皇帝クラウディウス(在位41- 54年)で、
彼は紀元43年に4個軍団4万の兵士をブリテン島に派遣しました。
その後、自分自身でも援軍を率いて遠征しています。
ローマは紀元43年に
属州ブリタンニアを設置しました。
ローマ属州名で言う時は「ブリタニア」ではなく「ブリタンニア」になります。
ブリテン島南部を征服した後、クラウディウスはローマに帰国しますが、
軍団は残り、ブリテン島の残りの部分の征服作戦を進めました。
紀元50年頃にはブリテン島の中部もローマの支配下に入りました。

  
皇帝クラウディウス               アメリカの歴史ドラマ『バーバリアン・ライジング』に
                       登場するカースティ・ミッチェル演ずる女王ボウディッカ


紀元60年頃、ブリテン島土着のイケニ族の
女王ボウディッカが、
ローマの支配に対して反乱を起こしています。
ブリテン島南東部から反乱が拡大し、ロンディニウム(のちのロンドン)も
略奪などの被害を受けました。
反乱を鎮圧したのは属州総督スエトニウス・パウリヌスでした。

紀元77(または78)年~84(または85)年、
グナエウス・ユリウス・
アグリコラが属州総督を務めた時代で、
この時にブリテン島北部のスコットランドまでローマの支配地域が拡大します。
アグリコラがローマに召還された後は、ローマ軍はスコットランドから次第に撤退しました。


②ハドリアヌスの長城                       
紀元122年から、ローマ帝国
第14代皇帝ハドリアヌス(在位117年-138年)は、
北方(今のスコットランド方面)からのケルト人の侵入を防ぐために、
ブリテン島の北部を東西に横断する形で、長大な城壁を築きました。
この城壁を
ハドリアヌスの長城と呼びます。


長城を建設した皇帝ハドリアヌス


紀元142年からは、さらに北にもう1本
「アントニヌスの長城」が築かれますが、
これは完成して20年くらいですぐに放棄されるので、
今回は、より有名な「ハドリアヌスの長城」の方の説明をしてゆきます。
ちなみに、下の地図の、
赤い線が「ハドリアヌスの長城」、青い線が「アントニヌスの長城」です。




「ハドリアヌスの長城」は、紀元122年からおよそ10年という年月をかけて
ローマ帝国によって築かれた城壁です。
北方からのケルト人の侵入を防ぐために、皇帝ハドリアヌスの命によって建設されました。
言わば中国「万里の長城」の古代ローマ版ですね。


この「長城」は、今のニューカッスル・アポン・タイン(Newcastle upon Tyne)から
カーライル(Carlisle)まで、ブリテン島北部を東西に横断する形で、
全長は約120kmあります。
「ハドリアヌスの長城」を示す上の地図の赤いラインの部分を拡大すると次のようになります。





壁の高さは4~5メートルあり、幅は厚いところで約3メートルもあります。
一定間隔(約1.5キロごと)に、ローマ兵の
小規模な監視所が造られていました(下の写真)。
 

       
監視所の復元想像図


さらに約6キロ間隔で要塞が建設されました。
それらの要塞の大きさはさまざまですが、大きな要塞になると
500~1000人のローマ兵が駐屯していました。
そうした大きな要塞のうち、
ハウスステッズ要塞ヴィンドランダ要塞を見てみましょう。
場所は下の地図のように、両方とも長城のほぼ中央部です。





③ハウスステッズ要塞(Housesteads Roman Fort)        
ハウスステッズ要塞またはハウステッズ要塞と言います。
もともとは木造の砦が造られたようですが、紀元124年頃に石造りで新たに建造されました。
当時の要塞名は「ヴェルコヴィキウム」(Vercovicium)でした。
その後何度も改修が重ねられたようです。



ローマ帝国の軍団駐留基地ではいつもそうであるように、
全体が長方形で、周囲は
城壁で囲みます。東西南北に出入口の城門が造られます。
下の見取り図を見て下さい。
基地の中央には
司令部(赤)、司令官住居(青)、倉庫(緑)、病院施設(黄)があり、
その周囲に兵舎が立ち並びます。紫色の部分は、工場・作業所です。
これはもう、
ちょっとした「街」と言っていいかも知れません。
(実際、ローマ軍の駐屯基地が後に都市に発展していった例も多いのです。)
また基地には導水施設(ただし水源は不明)、浴場、トイレなども備え付けられていました。
兵士以外の住居が南側の要塞外にあります。




兵士たちのトイレは上の地図の右下の隅にある赤い部分です。
何人もの兵士が一度に用を足せるように造られています。
しかも
大も小も両方可能な便座です。
古代ローマの共同トイレでは、男も座って小をしたのですね。
ちなみに司令官は、普通は自分の司令官住居の中の個人用トイレを使いました

 

排泄物は、便座の下の排水溝から外に排出されるようになっています。
古代の水洗トイレと言ったところです。
この時代にはトイレットペーパーなんてないので、
スポンジ(海綿)を濡らして使いました。
それを濡らしたり洗ったりするための、水が流れる導水溝が
便座に座った時、目の前に作られています。
手を洗ったりするための石の水槽が置いてあるのも見えますね。


ヴィンドランダ要塞(Roman fort of Vindolanda)         
ヴィンドランダ要塞は、ハウスステッド要塞と同じように、
最初は紀元85年頃にローマ軍の木造の砦が造られました。
ハドリアヌスの長城建設とともに、石造りで再建されました。
歩兵と騎兵、合わせておよそ1000名の兵士が駐留していた模様です。
208~211年にブリタニアでローマに対する反乱が起こりますが、
その際に被害を受けたようです。
紀元300年代にも何度か修復されましたが、
400年代に入って、ローマがブリタニアから撤収するのに伴って、最終的に放棄されました。

基本的な構造は、ハウスステッズ要塞と同じですが、
ヴィンドランダでは、兵士の駐屯基地の中と共に、
外にも
浴場が何カ所か見つかっています。
「テルマエ・ロマエ」の世界ですね。
北の最果ての地の寒い冬などは、暖かいお風呂は、きっとありがたかったことでしょう。


ヴィンドランダ要塞。上が兵士たちの駐屯基地、下はそれに付随する諸施設と地域の関係者の住居。

ヴィンドランダ要塞についてのYoutubeの動画を2つ紹介しておきます。
最初のものはヴィンドランダ要塞の空撮、
次のものはヴィンドランダ要塞についての概略を説明したものです。
後者の動画は、設定すれば日本語字幕を見ることが出来ます(自動翻訳なので
日本語が少し変なところがありますが)。
Vindolanda Roman Fort from above[6m42s]
Roman Vindolanda: An introduction 2021[22m18s]

※Youtubeで日本語字幕を見る設定の仕方は、次のサイトなどを参考にして下さい。
字幕の設定を管理する



⑤最果ての兵士たちと、ローマによる支配の終焉            
このヴィンドランダ要塞からは、20世紀の発掘によって、
多数の履き物が見つかっています。
しかも、
女性のサンダルや子供の履き物が、なんと1000足以上も見つかっているのです。
さらにまた、子供が遊びで使ったと思われる、
おもちゃの剣まで発掘されています。
これは何を意味しているのでしょうか?
 
上は子供の履き物、下は女性のサンダル。          子供用のおもちゃの剣(NHKより)


女性用のサンダルや子供のおもちゃが見つかったと言うことの意味は、恐らく一つしかありません。
つまり、兵士たちには妻や子供といった
「家族」がいたのです。

ローマ軍では、兵士は
独身の義務がありました。
たとえ妻がいても、軍団の駐屯地には男性の兵士しか許されていませんでした。
しかし、ここヴィンドランダでは兵士たちは妻を持ち、子供を育て、
家族とともに生きていたのです。
寒さの厳しいこの最果ての地で、過酷な任務に就いていた兵士たちは、
「家族」を持つことで、恐らくは心の安らぎを得ていたのかも知れません。

 
最果ての地の冬は厳しい                  いかにも寒そうな防寒着(ヴィンドランダ)


ところでローマ軍の兵士は、
25年間の兵役契約を結んでいました。
そして帝国各地への
移動(転戦)命令には従わなくてはなりませんでした。
いったん移動して別の任地に行くと、ほとんどの場合は、
二度と元の場所には戻れなかったのです。

実際、ヴィンドランダの兵士たちも、
紀元105年、
ルーマニアで起こったダキア戦争に参戦するため
この地からの移動を命じられます。
それは妻や子供、つまり
「家族」との永遠の別れだったのです。


ヴィンドランダの発掘で見つかった木片の記録文書(軍務報告書)には、
「除名」「追放」そして
脱走兵という記述が見つかっています。

つまり家族との別れを嫌い、
命令に背いて「脱走」して
この地で家族とともに生きる道を選んだ兵士たちもいたのでした。
鉄の規律と言われたローマ軍にも、そのようなことが起こっていたのです。



一方、命令に従ってダキアに移動になった部隊は、妻や子供の待つヴィンドランダに
再び戻ることは、やはりありませんでした。

後に残された妻や子供の、その後の人生はいったいどんなだったのでしょうか?
上の写真のサンダルを履いていた女性は、
ひょっとしたらそんな妻のひとりだったのかも知れません。
子供とともにこの地に残された
彼女のその後の人生はどんなだったのでしょうか?
いつ帰るとも分からない夫を、子供とともに待ち続けたのでしょうか。
そしてその後どんな人生の最期を迎えたのでしょうか?

また移動になってこの地を永遠に去った兵士たちは、
自分の妻や子供を遠いブリタニアの最果ての地に残したまま、
その後の人生をどのように過ごしたのでしょうか?


ハウスステッズ要塞に沈む夕日


ローマ帝国では、その後、政情不安が続き、さらに帝国のあちこちに反乱が起きていきます。
経済的危機や異民族の大規模な侵入などにも見舞われます。
そんな中、ローマは西暦の400年代にはブリタニアから撤収し、ついにそこを放棄します。

そして混乱のうちに、西暦476年に滅亡したのでした。



第9回目の授業ここまでです。
今回は前半・後半に分けていないので、これで終わりです。「後半」はありません。
次回からは中世に入ります。




★今回は、出席調査を兼ねて、小レポートを提出していただきます★
第5回~第9回の授業の内容について、自分がその中で一番印象に残ったことや、重要だと思ったことは何か、そしてそこに、できれば自分の意見や感想なども付け加えて、300字以上~400字くらいまでで書いてメールで提出(送信)して下さい。
ワードなどのファイルを添付するのではなく、
メール本文に直接書いて下さい
メールのタイトルには、必ず授業名、学生証番号、氏名を書いて下さい。例えば次のようにして下さい。
 (例)メールタイトル
戦争と文明/5BPY1234/東海太郎

提出(送信)締切りは、
5月20日(木)の22時までとします。

メールアドレスは、nakagawa@tokai-u.jp です。
「@」の次は、「tokai-u」です。「u-tokai」ではないので注意して下さい。

※出席調査を兼ねたこのような小コメントの提出は、あと3回ほど予定しています。
 一番最後に「最終レポート」を提出(送信)してもらいます。

★5月17日(月)は、授業のアップロードはありません★
次回は、5月20日(木)
の午前中(11~12時頃)に、第10回目の授業内容を
このサイトにアップします。
 
http://wars.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。


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【第9回(本日)の授業に関する参考文献】

青柳正規・NHK「ローマ帝国」プロジェクト
   『NHKスペシャル・ローマ帝国Ⅲ/光と影・帝国の終焉』日本放送出版協会、2004年。
青山吉信編『世界歴史大系/イギリス史1-先史~中世』山川出版社、1991/1995年。
南川高志『海の彼方のローマ帝国-古代ローマとブリテン島』岩波書店、2003年。
ウィルコックス『ガリアとブリテンのケルト戦士/ローマと戦った人々』
                         桑原透訳、新紀元社、2000年。
ピーター・サルウェイ『1冊でわかる・古代のイギリス』南川高志訳、岩波書店、2005年。
BIDWELL, Paul, Roman Forts in Britain, B.T. Batsford, 1997.
BIRLEY, Robin, Vindolanda: A Roman Frontier Fort on Hadrian's Wall,
                         Amberley Publishing, 2012.
JOHNSTON, David E., eds., Discovering Roman Britain,
                         Shire Publications, 1983/1993.
JONES, Michael E., The End of Roman Britain, Cornell University Press, 1996.
POTTER, Timothy William, Roman Britain, British Museum Publications, 1983.
SALWAY, Peter, The Oxford Illustrated History of Roman Britain,
                        Oxford University Press, 1993.
WACHER, John, Roman Britain, J. M. Dent & Sons Ltd, 1980.
WILSON, Roger J. A., A Guide to the Roman Remains in Britain,
                         Constable, 1975/2002.
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