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オンライン授業/ヨーロッパの戦争と文明
第7回(5月6日・木曜3限)/カエサルのガリア征服戦争(後半)       


④カエサルのガリア征服戦争                    

カエサルは、正式名はガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)といい、
紀元前100年に生まれました。
英語だと「ジュリアス・シーザー」(Julius Caesar)です。
世界史で「カエサル」と言うと、なんだか名字ではなく名前っぽく感じてしまいますが、
厳密に言うと「カエサル」というのは、日本で言う「徳川」とか「織田」とか「豊臣」と同じく
家の名前すなわち「カエサル家」で、名字みたいなものです。
なので「ガイウス・ユリウス・カエサル」というのは、
「ユリウス一族・カエサル家のガイウス」ですね(ユリウスというのは氏族名です)。
下の2枚の写真は、ともにカエサルです。
右の方はすこし老けてしまったカエサルかもしれませんね。頭も薄いし(笑)。
  

少し退屈な歴史の話をしておきましょう。
彼はローマの中でも政治的にも経済的にも名門の家に生まれました。
紀元前1世紀から紀元1世紀前半くらいまでは、
ローマは民衆派と元老院を中心とした門閥派が対立するなど政情不安で、
カエサルは平民派でしたが、一時的に外国に亡命するなどしました。

ローマに戻ると、紀元前69年に財務官、
紀元前65年には上級按察官(公共建築や祭儀などの管理)、
紀元前62年に法務官と、キャリアを重ねます。
紀元前61年にはヒスパニア(スペイン)総督にもなっています。
紀元前60年、平民派のカエサルは、元老院を押さえ込むため、
門閥派のポンペイウス、富豪のクラッススと組んで三頭政治を行います。
執政官(コンスル)にも選ばれました。
執政官の任期が切れた紀元前58年、
「前執政官」(これをプロコンスルといいます)として、属州ガリアの総督になりました。
そして、何かにつけて日頃からローマの言うことを聞かない
ガリア諸部族の平定に乗り出したのです。


⑤ガリアのリーダー・ヴェルサンジェトリクス              
紀元前58年から、カエサルはガリアをあちこち転戦しながら、
ガリアの諸部族を次々と平定してゆきます。
紀元前55年と54年には、今の英仏海峡を渡ってブリタンニア(今のイギリス)まで遠征しています。
紀元前53年あたりになるとガリアの諸部族の反抗も下火になるのですが、
カエサルが一時的にローマに戻っている間に、再び火の手が上がりました。

その蜂起を主導したのが、今のフランス中央部のオーヴェルニュ地方にいた
「アルウェルニ族」の若きリーダー、ウェルキンゲトリクスでした。
フランス語では
ヴェルサンジェトリクス」(Vercingétorix)と言います。
以下では、フランス語読みの「ヴェルサンジェトリクス」の方を使うことにします。
彼はまだ20歳ほどでしたが、統率力と作戦能力があり、ゲリラ戦を展開して、
しばしばローマ軍を苦しめました。
 
左はクレルモン・フェランの街のシンボル、ヴェルサンジェトリクス。
右はガリアで見つかったヴェルサンジェトリクスのコイン。

今のフランスの中央部ピュイ=ドゥ=ドーム県の県都
クレルモン=フェランの街は、
いわゆる
「オーヴェルニュ」地方全体の中心都市でもあります。
そもそもこの「オーヴェルニュ」という名前は、かつてこの地方に住んでいた
ガリア部族である「アルウェルニ族」から来ています。
なので、今でもクレルモン=フェランの街に行くと、あちこちに
ヴェルサンジェトリクスにちなんだものがあります。
上の左側の写真は、クレルモン=フェランの街の道路に埋め込んであるメダルです。

下の写真は、この街の中心にあるジョード広場(Place de Jaude)にある
ヴェルサンジェトリクスの騎馬像です。
ローマ軍に向かって突撃して行くヴェルサンジェトリクスですね。
 
クレルモン=フェランのジョード広場にあるヴェルサンジェトリクスの騎馬像。右は拡大。


⑥アレシアの戦い(攻囲戦) 紀元前52年               
さて、ヴェルサンジェトリクスはいったんはローマ軍に対して優勢に抵抗を続けますが、
次第に追い詰められ、結局
アレシア」(Alésiaの地に逃げ込み、
そこにいわば「籠城」することになります。
アレシアは、小高い丘(あるいは台地)の上にあります。
ヴェルサンジェトリクスはそこに立てこもり、カエサルはそのアレシアの丘を、
ローマ正規軍6個軍団と、味方に引き入れていたゲルマン人の騎兵部隊など、
合わせて6万の兵力で取り囲んだのです。

アレシアの丘


さて、ヴェルサンジェトリクスの立てこもるアレシアの丘を取り囲んだのはいいのですが、
そのヴェルサンジェトリクスを救おうと、ガリア各地から、ローマに反抗的な諸部族が
ぞくぞくとこの
アレシアの地に集まって来たのです。


アレシアの丘を取り囲んだはずなのに、気がついてみたら、
逆にいつの間にか外側から取り囲まれていた、というわけです。
ローマ軍は、まるで
「ドーナツ」の形のように、あるいは「リング」の形のようになって、
内側と外側から同時に攻撃されることになってしまいました。
下の図は、赤がローマ軍、青がガリア軍です。



カエサルは、このピンチにどう対処したのでしょうか?
彼は、ローマ軍のこの「ドーナツ」あるいは「リング」の
内側と外側のラインに、
強固な包囲線(または防御線)を構築したのです。
ローマ軍の兵士は、
戦う戦士であると同時に、優秀な土木工兵でもありました。

立てこもるヴェルサンジェトリクスに対処するための内側の攻囲線を3週間で、
また外から攻めてくるガリア連合軍に対処するための外側の防御線を、やはり3週間で作り上げました。

二重の攻囲・防御線を建設するローマ軍兵士たち



この攻囲・防御ラインは、一定間隔で並ぶ木造の櫓(やぐら)と連続する柵、
そしてその向こう(敵側)には、堀を作り、するどい木の枝を突き刺した穴などを並べ、
とにかく敵の兵士や馬が突撃してくるのを効果的に足止めし、
逆にこちらから弓矢で倒すことが可能でした。


このアレシアの地は、今のフランス・ブルゴーニュ地方にあるのですが、
そのブルゴーニュのボーヌという街の近くに、カエサルの築いたアレシアの攻囲ラインが
考古学公園として復元されています。



ボーヌの考古学公園(アルケオドローム/Archéodrome de Beaune, 2004.3.19)

このアレシアの戦い(攻囲戦)については、戦いの後でカエサル自身が書き残した
『ガリア戦記』という作品があります(翻訳は何種類か出ています)。
その『ガリア戦記』の中の、砦建設の部分を、少し長いですが、引用しておきます。

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「アレシアの町は丘の上の一段高い所にあり、攻囲なしでは落ちそうになかった。
その丘の両側の麓を二すじの河がながれていた。
町の前には長さ約三里の平原がひろがり、その他の面ではそれぞれ僅かな距離で同
じくらいの高さの丘が町を取り囲んでいた。丘の東にむかう面の防壁の下は
ガリー人の部隊がその場所を全部充たし、壕と高さ6ペスの堡塁を前に築いていた。
ローマ軍によって始められた堡塁の周囲は10里に達した。
陣地は有利な地点に〈堡塁で互に繋がれて8個〉置かれ、23個の砦が造られ、
不意の突撃を受けないように、その砦に昼は警戒兵が置かれ、
夜は歩哨と有力な守備隊がこれを護った。」

(カエサル『ガリア戦記』近山金次訳、第7巻第69節、岩波文庫)
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さて、このようにして鉄壁とも言える攻囲・防御の二重ラインを構築したローマ軍を、
アレシアの中に立てこもるヴェルサンジェトリクスも、外から集まって来たガリア連合軍も
容易には突破できませんでした。
そうこうしているうちに、アレシアに立てこもるヴェルサンジェトリクスの軍が、
深刻な食糧不足に陥ります。
ローマ軍による兵糧攻めに遭っているようなものですから、当然のことですね。
そして外にいるガリア連合軍も、ヴェルサンジェトリクスを救うために、
最後の突撃・突破を試みようとします。

突撃するガリア兵(ウィルコックス『ガリアとブリテンのケルト戦士』より)

紀元前52年10月2日、ガリア連合軍は、ローマ軍の攻囲ラインの北西部分が
最も防御が弱いと考え、そこに突撃をします。
アレシアの中にいたヴェルサンジェトリクスも同時に、そこに攻撃を始めます。
大接戦となりますが、
カエサル自ら、赤いマントを着てその場に急行します。
司令官の姿を見て、それに勇気づけられたローマ兵たちは、大いに奮い立ちました。
ガリア連合軍はカエサルの姿を見て、そこに引きつけられていきますが、
その時、ローマ騎兵の別働隊がガリア連合軍の後に回り込んで、これを壊滅させます。

カエサルの『ガリア戦記』のその部分を、これもまた少し長いですが引用しておきます。

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「[……]カエサルが戦闘でいつもしるしに使う衣服の色でカエサルの到着が知られ、
続行を命じた騎兵隊やコホルス隊の姿も見えると、敵は戦闘を始めた。
敵味方で鬨声があがり、堡塁という堡塁から鬨声が起った。味方は槍を棄て剣で闘った。
不意に敵の後ろに騎兵が現れ、コホルス隊も迫ってきた。
敵は背を向けたが、味方の騎兵は逃げる敵に襲いかかって、多くを殺した。
レモウィーケース族を指揮した有力者セードゥルスは殺され、
アルウェルニー族のウェルカッシウェラウヌスは敗走中に生捕られ、
74本の隊旗がカエサルの許へもち運ばれ、多数の敵の中でほんのわずかだけが
無事に仲間の陣地へもどった。町から仲間の敗北と殺されるのを見た敵は、
助かる望みをすてて堡塁から部隊をひきもどした。
これが分ると、たちまちガリー人は陣地から敗走した。[……]
真夜中頃から出された味方の騎兵は敵の後衛を追撃し、
多くのものを捕らえるか殺し、残りが逃げのびて各部族にもどった。」

(カエサル『ガリア戦記』第7巻第88節)
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この日の突撃も失敗し、ローマ軍の包囲線を突破できなかったヴェルサンジェトリクスは、
カエサルに
降伏する道を選びます。
ヴェルサンジェトリクスはカエサルの元に出向き、
勝者として堂々と着座するカエサルの前に武器を投げ捨てて捕虜となりました。
この古代ガリアの「関ヶ原の戦い」とも言える「アレシアの戦い」の後、
紀元前51年には、ガリア(今のフランス)は、ローマによってほぼ平定されました。
カエサルは、ガリアの地で莫大な富と名声を手に入れて、ローマに凱旋しました。
一方、捕虜となったヴェルサンジェトリクスは、ローマまで連れて行かれて処刑されました。

下の写真は、紀元前46-45年頃のローマのコインです。
ローマ軍の鎧や盾や武器の下に、征服されたガリア人が後ろ手にしばられて座っています。
その下には
「CAESAR」とありますね。
カエサルの勝利と凱旋を祝福する図柄です。


カエサルは手に入れた富と名声を背景に、ローマにおいて政敵たちを排除し、
元老院も押さえつけてゆきます。
紀元前46年には、終身独裁官に選出されますが、
これ以上権力がカエサルに集中することを恐れた元老院派によって、
紀元前44年に暗殺されました。

ちなみに、カエサルは「皇帝」にはなっていません。
暗殺されなければ、ひょっとしたらなっていたかも知れませんが、
その前に殺されてしまいました。
なので、カエサルまでのローマはまだ「帝国」ではなく
「共和政」です。
それでも「カエサル」という名前は、「皇帝」と同義で使われるようになります。
歴代のローマ皇帝の肩書きはみんな「カエサル」(=皇帝)です。
その後、ドイツ皇帝わ表す「カイザー」(Kaiser)も、「カエサル」から来ています。


⑦その後のヴェルサンジェトリクス                  
こうしてガリア(今のフランス)は、アレシアでの敗北の後、ローマに支配されますが、
皮肉なことに、
偉大なるローマ文明の恩恵を受けて、
その後は大いに繁栄することになります。

さて、そうした繁栄の、言わば犠牲となってローマに敗北して殺されてしまった
ガリアのリーダー、ヴェルサンジェトリクスでしたが、
それからおよそ1800年以上たった、19世紀のフランスで、
なんと今度は
フランスの英雄として祭り上げられます。

それまでフランス国王たちは、自分たちを古代ローマ皇帝のように自己アピールしていました。
自分は、古代ローマ皇帝の正当な継承者なのだ、
ヨーロッパ全体にローマのように君臨する支配者なのだ、といった感じです。
フランス革命の前のブルボン王家の国王たち、とりわけ
太陽王ルイ16世なんて、
ローマ皇帝の姿をした騎馬像がフランスのあちこちに残されています。

ところが、
19世紀になると、ヨーロッパ各国でナショナリズムが高まります。
「ナショナリズム」というのは、簡単に言ってしまえば、
何事につけとにかく「自国中心・自国ファースト」という思想・考え方です。
それで、自国こそがファーストだと考える国家同士が、お互いに対抗し、対立し、争うわけです。
「自国ファースト」で国民も統一していかなければならない。

でも「古代ローマ」というのは、
ヨーロッパのどの国にとっても、ご先祖様みたいなものです。
たいていの国は、古代にはローマ帝国の中に入っていました。
何よりも、古代ローマは、
イタリアの「ご先祖」です。
実際、19世紀のイタリアは、自分たちこそが、かつてのローマ帝国の栄光を
復興するんだと言って自国のナショナリズムを盛り上げます。

で、フランスとしては、もう古代ローマには頼れない。
もっと
フランス独自のアイデンティティーを強化するようなキャラが欲しい。
フランスとフランス人の愛国心を高めてくれるキャラが何かないか?
これはもう、ローマの支配に抵抗し、ローマと勇ましく戦って
ガリアの自由を守ろうとした
ヴェルサンジェトリクス以外にいないじゃん!
てなことになりました。

フランスを救った愛国者として有名な人物が、もう一人います。
英仏百年戦争でイギリス軍を破った
ジャンヌ・ダルクですね。
彼女もまた、ことあるごとに、フランスが危機に陥った時には決まって引っ張り出されてきた
愛国心のシンボルみたいな女性です。
紀元前52年の英雄ヴェルサンジェトリクスと、1431年の愛国者ジャンヌ・ダルク。
なんと、
1500年近い時を越えた二人のフランスのシンボルが握手をしている
という彫刻まで、19世紀には作られたのです。
日本で言うと、卑弥呼と徳川家康が握手してるみたいなものですね(笑)。
卑弥呼も家康も、どちらもあまり愛国的シンボルとは言えないですけど。

ジャンヌ・ダルクとヴェルサンジェトリクス(1860年)。
シャトゥルース(Chatrousse Emile François/1829-1896)の作品。


最後に、古代ローマの英雄カエサルについての余談です。
下の写真のカエサルは、
パリのルーヴル美術館にあるカエサルの彫像です。
ニコラ・クストゥの作品(1713年)です。
ガリア征服戦争を行っている頃の勇ましい感じでしょうか。

ルーヴル美術館(2013.8.21)

ちなみにこの彫像が置かれているすぐ隣には、なんと
カルタゴのハンニバルの、
やはりかなりカッコイイ彫像が立っています。
時代は異なりますが、ライバルであるカルタゴと、ローマのそれぞれの英雄が、
仲良く(?)二人並んで立っています。
あるいは向き合って、お互いにガンを飛ばすようにして立っています(笑)。
パリのルーヴル美術館を訪れる日本人観光客で、
この二人の英雄の彫像に注目する人は、残念ながらあまり(と言うかほとんど)いません。
でも皆さんは、ルーヴルに行ったら、有名な「モナ・リザ」だけではなく、
ぜひこの二人の彫像も見て下さいね。

ハンニバル(左)とカエサル(右)。ルーヴル美術館(2013.8.21)




本日はここまでです。
次回(第8回)は、ローマ軍の軍制と映画などに見るローマ軍のイメージについてです。


 今回は、小レポートやその他の提出物などはありません。

※次回の小レポートの提出は、第9回目の授業が終わったところで予定しています。

次回は5月10日(月)の午前中(11~12時頃)に、第8回目の授業内容をこのサイトにアップします。
 
http://wars.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。


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【本日第7回の授業に関する参考文献】
佐藤賢一『カエサルを撃て』中央公論新社、1999年。
塩野七生『ローマ人の物語4/ユリウス・カエサル ルビコン以前』新潮社、1995年。
柴田三千雄・樺山 紘一・福井 憲彦ほか編著『世界歴史大系/フランス史1・先史~15世紀』
                        山川出版社、1995年。
中島悟史『シーザーの大戦略』ビジネス社、1995年。
長谷川博隆『カエサル』講談社学術文庫、1994/1997年。
馬場恵二『ビジュアル版世界の歴史3/ギリシア・ローマの栄光』講談社、1984/1989年。
村川堅太郎編『世界の歴史2/ギリシアとローマ』中公文庫、1974/1989年。
吉村忠典編『世界の戦争 (2) ローマ人の戦争―名将ハンニバルとカエサルの軍隊』講談社、1985年。
ウィルコックス『ガリアとブリテンのケルト戦士/ローマと戦った人々』
                          桑原透訳、新紀元社、2000年。
カエサル『ガリア戦記』近山金次訳、岩波文庫、1942/1988年。
ゴールズワーシー『図説・古代ローマの戦い』遠藤利国訳、東洋書林、2003年。
サイドボトム『ギリシャ・ローマの戦争』吉村忠典・澤田典子訳、岩波書店、2006年。
モムゼン『ローマの歴史4/カエサルの時代』長谷川博隆訳、名古屋大学出版会、2007年。
ベック&シュー『ケルト文明とローマ帝国-ガリア戦記の舞台(知の再発見双書114)』
                      鶴岡真弓監修、遠藤ゆかり訳、創元社、2004年。
『歴史群像アーカイブ/No.04/西洋戦史-ギリシア・ローマ編』学習研究社、2008年9月。
BROMWICH, James, The Roman Remains of Southern France, Routledge, 1996.
DRINKWATER, J. F., Roman Gaul, The three provinces, 58 BC-AD 260,
                              Cornell UP, Ithaca, 1983.
HATT, J. J. , Histoire de la Gaule romaine(120 avant J.-C. -451 après J.-C.), Payot, 1970.
KING, Anthony, Roman Gaul and Germany, British Museum Publications, London, 1990.
LE GALL, Joël, Guide Archéologiques de la France, Alésia, 1985.
LE GALL, Joël, La Bataille d'Alésia, La Sorbonne, 1999.
MOUREY, Émile, Histoire de Bibracte, Le Bouclier Éduen, 1992.
Musée des Antiquités nationales, Vercingétorix et Alésia,
                 Réunion des Musées Nationaux, Paris, 1994.
PERNOUD, Régine, Les Gaulois, Seuil, 1979.
PIGGOTT, Stuart, et al.(dir), France before the Romans, Noyes Press, 1975.
REDDÉ, Michel, dir., L'Armée romaine en Gaule, Errance, 1996.



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