オンライン授業/ヨーロッパの戦争と文明
第7回(5月6日・木曜3限)/カエサルのガリア征服戦争(前半)
(※ページの画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込みするとちゃんと表示されると思います)

本日は、
ローマのガリア進出(前半)と、
カエサルのガリア征服戦争(後半)
について取り上げます。

カエサルのガリア征服戦争は、
紀元前52年の「アレシアの戦い(攻囲戦)」での勝利によって完了します。

※今学期、この「戦争と文明」と同時に、
私が担当している「西ヨーロッパ地域研究A」(火曜3限)を履修している人は、
本日の「前半」は少し話の内容が重複するところがあります。
あらかじめ、どうかお許し下さい。

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【年表】
紀元前272年 共和政ローマ、イタリア半島を統一。
紀元前149年 第3次ポエニ戦争(~146年)。カルタゴ滅亡。
紀元前125年 ケルト系サルウィイー族、マッサリアを攻撃。マッサリアはローマに援軍要請。
紀元前124年 
ローマ、南ガリアのケルト系要塞都市アントルモンを破壊。
紀元前122年 セクスティウスによるアクアエ・セクスティウスの建設。
紀元前121年 ローマ、属州ナルボネンシスを創設。
紀元前118年 ローマの植民都市ナルボンヌ建設。
紀元前58年  
カエサルのガリア征服戦争(~紀元前51年)
紀元前55年  カエサル、ブリタニア遠征。
紀元前52年  
アレシアの攻囲戦。ガリアはローマの属州となる。
紀元前45年  カエサルの独裁。
紀元前44年  カエサル暗殺される。
紀元前27年  オクタヴィアヌス、アウグストゥス(尊厳者)として、
       事実上の帝政を開始(前期帝政)。
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①ガリアへのローマの進出                     
最初、都市国家からスタートしたローマは、周辺の都市国家群を次々と征服し、
紀元前272年にはイタリア半島を統一します(この頃は共和政期で、まだ「帝国」ではありません)。
紀元前27年にはアウグストゥス(オクタウィアヌス)が事実上の帝政を開始します。
世界史の教科書などでも、このアウグストゥスをローマ帝国の初代皇帝としています。
共和政ローマはいよいよ
「ローマ帝国」となります。
その後もひたすら征服戦争と領土拡大を続け、
第14代皇帝トラヤヌス(在位98-117年)の時に、ローマ帝国の領土が最大版図となり、
地中海から
今の西ヨーロッパを含む大帝国を築き上げることとなります。


さてしかし、前回の授業で扱ったカルタゴとのポエニ戦争が、最終的に終わった時点では、
まだイタリア半島、シチリア島、イベリア半島しか領有していません。
紀元前2世紀前半の時点で、ローマ(共和政ローマ)の支配領域(赤い部分)は次の地図の通りです。




これを見れば分かるとおり、イタリアとイベリア半島(ヒスパニア)の間には
手つかずのガリア(後のフランス)があります。
紀元前2世紀前半の時点では、ここはまだローマの勢力範囲には入っていません。
非常に勇猛で乱暴なケルト系ガリア人がそこには住んでおり、
ローマ人がイタリアとイベリア半島の間を陸路で行き来するのはなかなか難しい状態でした。
ヒスパニアの総督に任命されたローマの高官が、
ガリアを通って陸路でヒスパニアに向かおうとして、
途中で襲撃されて命を落とすといった事件さえ起こっています(紀元前189年)。

②ガリア人/ケルト系サルウィイー族と要塞都市アントルモン        
とにかくこの頃は、まだガリアの地は、ローマ人にとっては
勇敢で獰猛な恐ろしいガリア人の諸部族が割拠して勢力を張って住んでいる土地でした。
彼らはオッピドゥムと呼ばれる要塞都市・要塞集落を、小山の上などに築いて住んでいました。
また戦争で殺した敵の兵士の首を切って街の門や家の門に飾るという、
恐ろしい風習も持っていました。いわゆる「首狩り族」というやつでしょうか。

さて、上の地図の、イタリアとヒスパニアの間のガリアの南の部分を拡大したものが次の地図です。


この地図にあるマルセイユは、紀元前7世紀(紀元前600年代)頃に作られたギリシア人の植民都市でした。
その当時の名前は「マルセイユ」ではなく
「マッサリア」(またはマッシリア)と言いました。
地中海を船で行き来する交易で栄えていました。
ギリシア人ですから、ローマ人から見れば、同じヘレニズム系の文明を営むところの、
言わば「親戚」みたいなものですね。

一方、この地図の
「アントルモン」というのは、
土着のケルト系ガリア人(あるいはリグリア人)の一派である
「サルウィイー族」が拠点としていた「オッピドゥム」(要塞都市)でした。
「マッサリア(マルセイユ)」からは約30キロしか離れていません。
上の地図のマルセイユの部分を拡大すると下の地図のようになります。


さらにアントルモンの遺跡を拡大すると次のようになります。
グーグル・アースのサテライトです。


上の衛星写真の赤い線で囲んだ部分が、
サルウィイー族の要塞都市アントルモン(Entremont)です。
さらに要塞都市の上(北)の部分の太い赤線で二重に示したところには、
当時この要塞都市を取り囲んでいた、防御のための強固な城壁が、今でも残っています。
下の写真がそうで、石の城壁に、一定間隔で塔が張り出ています。

アントルモン遺跡(2019.1.28)

このオッピドゥム(要塞都市)アントルモンの内部には、
幾何学的な(碁盤目状の)プランに従って住居が並んでいます。
もともとケルト人はこうした幾何学的な都市プランというものを知らないので、
これはやはり、この場所が地中海に近く、ギリシア人の植民都市マッサリアにも近かった
という事情があるのでしょう。
ギリシアの幾何学的都市プランに影響を受けていたものと思われます。


 

アントルモン(2003.3.3)                  アントルモン(2019.1.28)

こうして見ると、1つの住居は長方形で、そんなに広くありません。
日本風に言うと「6畳一間、バス・トイレ無し」(笑)といったところでしょうか。
そうした家に、今から2100年以上前に、それぞれ家族が生活していたのです。
何人くらいこの「6畳一間」で生活していたのでしょう?
お父さん、お母さん、子供たち、おじいちゃん、おばあちゃん、いやもっといたかも知れませんね。
「ほら、父ちゃんが今日の狩りの獲物を持って帰ってきたよ、子供たち、さぁ夕飯にしよう!」
みたいな会話もあったかも知れませんね。
そういったことを想像してみるのは、なかなか楽しいことです。


ところで、グーグルアースのサテライトでこのアントルモンの中の住居区画を真上から見てみると、
下の2枚の写真のように、幾何学的で碁盤目状に作られた都市計画がよりいっそう分かります。
左側の写真の黄色い矢印で示したところを、もう少し拡大すると右側の
赤い枠で囲んだところがよく見えるようになります。
 

地上に降りて、直接その場所に行ってみると、下の写真のようなところです。
まるで何かの舞台のような、長くて広めのスペースになっています。
そして右側の写真を見ると、そのスペースの手前には長い石が横にして埋められています。
黄色い矢印の石です。
 
アントルモン(2003.3.3)

この横倒しになった長い石に、さらに近づいてよく見ると、
なにか丸い形のものがずらずらとつながって彫刻されています(下の左の写真)。
さらに近づいてよ~く見てみると、なんと、その丸いものは
人間の頭のように見えるではありませんか!
 

そうです、これは
人間の頭(首)なんですね。
しかもこの石は、今は横倒しになっていますが、今から2100年以上前には、
ちゃんと垂直に立てられていたのです。
つまりこのスペースには、
人間の頭(首)がたくさん彫刻された柱が並んでいたのです。

先ほど、ケルト系ガリア人は勇猛だったが、戦って殺した敵の首を切って持ち帰ったと言いましたが、
まさしくその風習を伝えるものです。
もともとは、このように彫刻された首ではなく、本当に切り取って持ち帰った
本物の首を柱にはめ込んで、都市のこうしたスペースや自宅の入口とかに飾ったと言われています。
次の写真は、マルセイユの考古学博物館に展示されているサルウィイー族の柱です。
本物の頭(首)をはめ込んでおくための丸い穴が開いています。

マルセイユ考古学博物館(1997.3.8)

このアントルモンで行われた考古学的発掘で見つかったものの中に、
サルウィイー族の戦士の座像というものがあります。
エクス・アン・プロヴァンスの「グラネ美術館」考古学部門に展示されています。
他の部族との戦いなどで殺したいくつもの敵の首を、
得意そうにヒザに抱えていますね。
下の左側の写真がそうで、頭部などは失われているのですが、
復元想像図が右側の絵になります。
 
サルウィイー族の戦士の座像(グラネ美術館、エクス・アン・プロヴァンス)

この戦士が抱えていた首はいくつか残っています。
右の写真はそのうちのひとつですが、くぼんで閉じられた目とかが、
いかにも死んだ死体の頭部っぽくて、
彫刻の表現がとてもリアルですね。
 
エクス・アン・プロヴァンスのグラネ美術館(2001.3.11)

恐らく最初は本物の生首を飾っていたのでしょうが、
そうそういつも戦争があって、敵の生首が手に入るわけでもないし、
ひょっとしたらこちらが敵に殺されてしまうこともあるでしょう。
なので、本物の生首の代わりに、石の柱や彫像に、
人間の頭(首)を彫刻することで済ませるようになったのかも知れません。

それにしても、なぜ切り取った人間の頭(首)を飾ったのでしょうか?
まず何よりも、自分たちの戦士としての力・武勇・勇気・名誉などを
誇示したかったということですね。
さらに、敵に対して「自分たちを攻めてくると、お前たちもこういう目に遭うんだぞ」
という威嚇の意味があったのかも知れません。
あるいは生首を街や家に飾って、
一種の「悪霊退散」の効果(?)があるとでも信じられたのでしょうか。

ローマ人の目から見ると、こうした土着のケルト人たちは、
勇猛果敢ですが、同時に「首狩り」という
恐ろしい風習を持つ「野蛮人」と見えたのかも知れません。

でもよく考えてみたら、日本だって、つい160年位前の江戸時代まで、
サムライたちは戦(いくさ)で倒した敵の首を討ち取りました。
それが武勇と手柄を示す行為として評価されたのです。
犯罪人だって処刑されるとその首は切り取られて晒(さら)しものにされました。
これもまた立派な「首狩り」ですね。


③ローマのガリア進出                         
さて、ここまで説明してきたケルト系ガリア人であるサルウィイー族は、
紀元前2世紀になって、アントルモンの南にある、ギリシア人の植民都市マッサリアを
次第に圧迫するようになりました。
紀元前125年には、とうとう
マッサリアに本格的な攻撃を加えるようになったのです。
交易で栄えるマッサリア(マルセイユ)の富が欲しくなったのかも知れません。


攻められて困ったマッサリアは、カルタゴを破って強力な軍事力を発揮しつつあった
「親戚」である
ローマに助けを求めました。
ローマは内心喜んだ(いや、ほくそ笑んだ?)かも知れません。
イスパニアへの陸路の途中の空白地帯に手を出すための
ちょうど打ってつけの大義名分が転がり込んできたわけですね。


紀元前125年から124年にかけて、ローマはマッサリアの支援要請に応える形で軍隊を派遣し、
そして紀元前124年、サルウィイー族の
アントルモンを攻略・破壊しました。
勇猛果敢なサルウィイー族も、ローマ軍の組織力と軍事力にはひとたまりもなかったのです。
要塞都市アントルモンの住民の多くは奴隷身分におとされました。
彼らの王は逃亡したとされています。

ローマは、紀元前122年からアントルモンのすぐ南の温泉の湧くところに軍団の駐屯基地を築き、
さらにそれが都市に発展していきます。
アントルモンを破壊したローマ軍の指揮官で執政官だった
セクスティウス・カルヴィヌス(Sextius Calvinus)が築いた街だったので、
その名を取って
アクアエ・セクスティアエ(Aquae Sextiae)と命名されました。
「アクアエ」は「泉」とか「温泉」を意味するラテン語です。
なので街の名前は「セクスティウスの泉」という意味です。
これが
今のエクス・アン・プロヴァンス(Aix-en-Provence)です。
(ちなみに、東海大学はこのエクス・アン・プロヴァンスの大学と交換留学の協定を結んでいます)

エクス・アン・プロヴァンス(2003.8.19)

その後、さらにローマはその周辺地域も制圧し、とうとう紀元前121年頃には
空白地帯であった南ガリアをものの見事に手中に収めてしまいます。

ローマはこの地域に
「属州ガリア・ナルボネンシス」を創設し、
その首都としてナルボンヌ(Narbonne)を建設しました。
南ガリア(南フランス)は、こうしてついにローマの支配下に入ったのでした。
下の地図のピンク色のところが
すべてローマのものとなったわけです。





第7回目の授業の「前半」はここまでです。
「後半」は、カエサルによるガリア征服戦争です。



  →第7回目の後半に続く


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