ヨーロッパの戦争と文明
第6回(4月29日・木曜3限)/ハンニバルとカンナエの戦い(後半)

ハンニバル・バルカ
②第2次ポエニ戦争/カンナエの戦い(紀元前216年)
本日の「前半」で見たように、
ローマは、トラシメヌス湖畔の敗北によって15000もの戦死者を出して敗北しました。
ローマの元老院は驚きあわてて、新たにファビウス・マクシムスを独裁官に任命します。
ファビウスは、ハンニバルは真正面から戦って勝てる相手ではないと悟り、
ローマ軍の戦力を再編しつつ、直接対決を避けて、持久戦(消耗戦)
という形を取りました。
一方、ハンニバルの方は、なぜかそのままローマ市本国を攻撃することはせず、
ローマを迂回して、イタリア半島各地を略奪して回りました。
こうしている間、ローマでは、ハンニバルに各地の略奪を手をこまねいて許している
ファビウスが「臆病者」と批判されるようになり、6ヶ月で独裁官を免職となります。
そして、ルキウス・アエミリウス・パウルスとガイウス・テレンティウス・ウァロが
新たに執政官に任命されました。
特に後者のガイウス・テレンティウス・ウァロは、積極的決戦推進論者でした。
紀元前216年8月2日、二人の執政官は、
8万6千のローマ軍を率いてカンナエでカルタゴ軍と対峙することになります。

②-1/兵力と配置
カンナエの戦いにおけるローマ軍とカルタゴ軍の兵力は次の通りです。
ローマ軍 歩兵 約6万~7万 騎兵 約6千 計7万~8万(うち1万は背後の陣地守備)
カルタゴ軍 歩兵 約3万~4万 騎兵 約1万 計4万~5万
研究者によって多少の幅はありますが、ローマ軍がカルタゴ軍のほぼ2倍の兵力です。
しかし、それは歩兵(重装・軽装)の数の差です。
騎兵はカルタゴ軍の方が多いことに注目しておきましょう。

両軍の配置は上の図の通りです。
ローマ軍は中央部に縦深度を増やした重装歩兵、その前面に軽装歩兵、合わせて約8万。
両翼には右翼にローマ騎兵2400、左翼に同盟都市騎兵4800を置きました。
これは分厚い重装歩兵部隊によって敵軍の中央突破をねらったものでした。
あくまでも、中央の重装歩兵部隊で、力ずくで押していき、敵を崩すというものです。
自分たちは強いんだという自信過剰が感じられます。
敵が側面あるいは後方に回りこんで来る前に、
中央部を突破してしまえば包囲されないだろうというねらいがありました。
それに対してカルタゴ軍は、上の配置図を見ても分かるように、
中央部前方にガリア・スペイン人歩兵を弓なりに張り出させて配置し、
その後方にカルタゴの重装歩兵を配置しました。
また歩兵部隊の左右両翼には、右翼にハンノ指揮のヌミディア人騎兵部隊、
左翼にハスドルバル指揮のガリア・スペイン人騎兵部隊を置きました。
ハンニバルが中央の歩兵を弓なりに置いた理由としては、
敵ローマ軍重装歩兵による中央部の攻撃速度をなるべく遅らせ、
中央部がなんとか持ちこたえている間に、
両翼の強力な騎兵が敵の両翼の騎兵を破壊して包囲にもっていくためでした。
②-2/戦闘開始
紀元前216年8月2日、カンナエの戦いが始まります。
ローマ軍は、中央の重装歩兵が前進し、カルタゴ軍中央の
弓なりに張り出したガリア・スペイン人歩兵と衝突します。
戦力で勝るローマ軍は、弓状のカルタゴ軍中央部を、グイグイと押し込んでいきます。
しかしカルタゴ軍中央部のガリア・スペイン人歩兵は、
ジリジリと後退しながらもローマ軍の圧力に耐えていました。
途中からカルタゴ軍主力のハンニバルの重装歩兵部隊が加わり、
ローマ軍にとって、容易には中央突破が出来ない状態となっていました。

②-3/カルタゴ軍左翼の騎兵部隊、ローマ軍右翼の騎兵部隊を粉砕
カルタゴ軍右翼のヌミディア人騎兵部隊(ハンノ指揮)とローマ軍左翼の同盟軍騎兵部隊の戦いは
兵力も互角で、同等な戦いを展開していました。
一方、カルタゴ軍左翼の騎兵部隊(ハスドルバル指揮のスペイン・ガリア騎兵)は、
ローマ軍右翼のローマ騎兵に対して兵力で勝り、優勢に戦いを進め、ついにこれを敗走させます。
そもそもローマ軍では、重装歩兵の強さについての自信過剰がありました。
騎兵というものにあまり重きを置いていなかったのです。
そもそも「騎兵」には、馬やその他の装備を自前で用意できるだけの経済力が必要です。
つまり裕福な家庭の、言わば「お坊ちゃんたち」が多かったのだと言えます。
歴戦の強者であるカルタゴの騎兵にはしょせんかなわなかったのです。

②-4/カルタゴ軍左翼の騎兵部隊、右翼の紀元前兵船に回り込んで加わる
ローマ軍右翼の騎兵を撃破したカルタゴ軍左翼の騎兵部隊(スペイン・ガリア騎兵)は、
右旋回して、カルタゴ軍右翼のヌミディア騎兵と戦うローマ同盟国騎兵を挟み撃ちにします。
前と後ろを敵の騎兵部隊に挟まれたローマ同盟国騎兵は、支えきれずにとうとう潰走しました。


②-5/カルタゴ騎兵部隊、中央のローマ軍歩兵部隊を後方から包囲
この時点でカルタゴ軍中央は、ローマ軍重装歩兵に押されて、
最初とは逆の後方へと張り出す弓形(上向きのV字ではなくU字形)になりつつありました。

カルタゴ騎兵は、潰走するローマ同盟軍騎兵の追撃はせず、
そのまま今度は中央部のローマ軍歩兵の背後から襲いかかる形となりました。

②-6/ローマ軍は完全に包囲され、全滅。
ローマ軍中央の重装歩兵7万は、こうなると袋のネズミです。



戦場の後方にいたローマ補給陣地の守備隊1万は捕虜となりました。
このカンナエの戦いにおけるローマ軍の戦死者は、5万とも6万とも7万とも言われます。
指揮官の執政官パウルス、中央部重装歩兵部隊指揮官セルウィリウスも戦死し、
戦場に同行していた元老院議員およそ80名も戦死しました。
総指揮官のウァロはかろうじて戦場から逃げました。
後方陣地にとどまっていた1万のローマ兵は捕虜となりました。
カルタゴ軍側の戦死者は5000~6000と言われます。
しかもそのほとんどが中央部のガリア・スペイン人歩兵で、
カルタゴ兵の戦死者は少なかったのです。
ほぼ2倍の兵力の敵を、これだけの被害を出しただけで、完璧に壊滅させたわけです。

カンナエの戦い
ちなみに、この戦場から命からがら脱出に成功したのが、
当時19歳のコルネリウス・スキピオ(大スキピオ、またはスキピオ・アフリカヌス)でした。
彼は14年後の紀元前202年に、ザマの会戦において、今度は逆に包囲戦を成功させ、
ハンニバルを破ることになります。

現在のカンナエの平原
③カンナエの会戦後の経過と影響
ハンニバルは、カンナエの勝利のあと、なぜかやはりローマへの直接侵攻はせず、
イタリア南部の攻略・略奪を続けました。
一方、ローマはこのあと、再びイタリア本土では持久戦に方針転換し、
海軍を使ってハンニバルへの補給線を断つことにしました。
またこれまで弱点であった騎兵の育成と増強に力を入れるようになります。
騎兵の機動力を重視し、敵歩兵を味方の歩兵で引きつける間に
味方の騎兵が敵の後方に回って完全に包囲殲滅するというハンニバル顔負けの戦法は、
このあとザマの戦い(紀元前202年)で完成されることになります。
カンナエの勝利の後、ハンニバルは次第に南イタリアに封じ込められていき、
カルタゴは、いったんハンニバルを本国に召還します。
その後紀元前202年、北アフリカのザマの会戦において
ハンニバルは大スキピオ(スキピオ・アフリカヌス)率いるローマ軍に敗北しますが、
一時期カルタゴの財政再建などに尽力することとなります。
しかしカルタゴ国内の政治的な争いに敗れてセレウコス朝シリアに亡命後、
紀元前183年(または紀元前182年)にシリアにおいて自殺してしまいました。
ローマ最大の宿敵の最期にしては、あっけなくて残念ですね。
④カンナエの戦いの評価
カンナエの戦いは、歴史上、まれに見る完璧な包囲戦であったと言われています。
いくつか、その評価を紹介しておきましょう。
「戦闘が終わったこの夜、イタリア全土にもうローマ兵の影は
全くなかった、といってよかろう。
完璧な勝利であった。歴史上類例のない、野戦での完璧な包囲戦であった。
幾世紀にもわたり、そして殲滅戦の典型として称賛されてゆく。」
(長谷川博隆『ハンニバル』、講談社学術文庫、2005年、109頁)
「二重包囲による殲滅がほぼ完璧に、理論通り行われた一つの例がある。
それは、歴史における二重包囲が試みられ達成された「最初の戦例」であり、
また同時に、規律も装備も士気も我と同等か上回るところの、
ほぼ二倍の兵力の敵に対して勝利を得た、まことに希有な戦いであった。
ナポレオンでさえ、生涯において二倍の兵力差を覆したことはないのである。
破られた軍隊をローマ軍、破った指揮官をカルタゴのハンニバルという。
時は前216年8月2日、ところはイタリア南東のアプリア地方、
アウフィドゥス河畔のカンナエである。」
(『歴史群像アーカイブ4・西洋戦史/ギリシア・ローマ編』学研、2008年、61-62頁)
「後年、この戦いは包囲殲滅戦のお手本とされ、
ドイツ帝国陸軍のシュリーフェン・プランや、
日露戦争の奉天会戦の日本軍もこれを参考にした。
また、現代の教書でもこの戦いは重要視されている。」
(Wikipedia「カンナエの戦い」の項)
「騎兵の機動力を重視し、敵歩兵を味方の歩兵で引きつける間に
味方の騎兵が敵の後方に回って完全に包囲殲滅する戦法は、ザマの戦いで完成された。
このハンニバルとスキピオの戦法は現代に至るまで有効とされており、
現代の各国の陸軍士官学校でもカンナエの戦いとザマの戦いは
必ず教材として使われているという。」
(Wikipedia「スキピオ・アフリカヌス」の項)
⑤ハンニバルのイメージ
ローマでは、このようなわけで、「ハンニバル」という名前は、
非常に恐ろしいものとして語り継がれるようになりました。
子供が何か悪さをすると、親が「そんなことしたら、ハンニバルが来るよ!」
と言って子供をしかったりしたそうです。
とにかく「ハンニバル=怖い」というイメージですね。
古代ローマのそんな意識が残っているのかどうかよく分かりませんが、
現代の映画作品などでも「ハンニバル=恐ろしいやつ」という
イメージが利用されているようです。
例えば、『羊たちの沈黙』(1991年・アメリカ映画)など。
「それ見たよ」という学生の皆さんも少なくないかも知れませんね。
主役は、ジョディ・フォスター演ずるFBI捜査官クラリス・スターリングではなく、
むしろアンソニー・ホプキンス演ずる、チョー凶悪連続殺人鬼、
ハンニバル・レクター博士です。
本当に恐ろしいやつです。

ハンニバル・レクター博士
ちなみに、このハンニバル・レクターを扱ったシリーズものが
映画化・TVドラマ化されています。

これはTVドラマシリーズ『ハンニバル3』です。
「恐怖はこれから」。
きっと古代ローマ人も、こんな気持ちだったのかも知れませんね(笑)。
次回は、古代ローマの英雄カエサルのガリア征服戦争を取り上げます。
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| 次回は6月4日(木)の午前中(11~12時頃)に、第7回目の授業内容をこのサイトにアップします。 http://wars.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。 |
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【今日の授業に関する参考文献】
奥出阜義『ハンニバルに学ぶ戦略思考-「戦略の父」が教える11の原則』
ダイヤモンド社、2011年。
佐藤賢一『ハンニバル戦争』中公文庫、2019年。
塩野七生『ローマ人の物語2/ハンニバル戦記』新潮社、1993年。
塚原富衛『ローマ・カルタゴ百年戦争』展転社、1990年。
長谷川博隆『ハンニバル・地中海世界の覇権をかけて』講談社学術文庫、2005年。
吉村忠典編『世界の戦争 (2) ローマ人の戦争―名将ハンニバルとカエサルの軍隊』
講談社、1985年。
ウルス=ミエダン『カルタゴ』高田邦彦訳、文庫クセジュ、白水社、1996年。
ゴールズワーシー『図説・古代ローマの戦い』遠藤利国訳、東洋書林、2003年。
コンベ=ファルヌー『ポエニ戦争』石川勝二訳、文庫クセジュ、白水社、1999年。
サイドボトム『ギリシャ・ローマの戦争』吉村忠典・澤田典子訳、岩波書店、2006年。
リウィウス『ローマ建国以来の歴史5:ハンニバル戦争(1)』
安井萠訳、京都大学学術出版会、2014年。
ワイズ『カルタゴ戦争:265BC-146BC~ポエニ戦争の軍隊』
桑原透訳、新紀元社、2000年。
『歴史群像アーカイブ/No.04/西洋戦史-ギリシア・ローマ編』
学習研究社、2008年9月。
HOYOS, Dexter, Hannibal:Rome's Greatest Enemy, Bristol Phoenix Press, 2008.
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