ヨーロッパの戦争と文明/第5回(4月26日・月曜3限)
ポエニ戦争とハンニバルのアルプス越え(後半)
②第2次ポエニ戦争(紀元前218~201年)
第1次ポエニ戦争に敗北してシチリア島を失ったカルタゴは、
紀元前237年頃から、ローマとの講和条約で領有が認められていた
イベリア半島(後のスペイン)の開発に乗り出しました。
そしてカルタゴ・ノウァという都市を建設します。
これは現在のカルタヘナにあたります(下の地図)。
イベリア半島の開発と経営にを主導したのは、
先の第1次ポエニ戦争でも活躍した、ハミルカル・バルカ(ハンニバルの父)でした。
ちなみに、スペイン北東部の都市バルセロナ(ガウディの聖家族教会でも有名)の名前は、
ここがもとはバルカ家の領地であったことから付けられたと言われています。
さて、ハミルカル・バルカは紀元前228年に亡くなります。
イベリア半島にバルカ家の王国を建設しようとする戦いの最中に戦死したとも言われています。
彼の死後は娘婿のハスドルバルが事業を継続するのですが、
その娘婿も暗殺されてしまうと、いよいよ紀元前221年、ハミルカル・バルカの息子である
ハンニバル・バルカが26歳にして、父親の意志を継ぐことになりました。

カルタゴではこの若者の人気は絶大でした。
この人気を警戒したローマは、サグントという街と同盟を結んで、ハンニバルを牽制します。
しかしハンニバルは紀元前219年、ローマと同盟した
サグントゥム(現在のサグント)を攻撃し、8ヶ月ののちにこれを陥落させます。
ローマは使節を派遣しますが、ほどなくカルタゴ(ハンニバル)に宣戦布告しました。
ここに第2次ポエニ戦争、別名「ハンニバル戦争」が始まったのです。
③第2次ポエニ戦争/ハンニバル、ピレネーを越える
次の写真の左側のものは、パリのルーヴル美術館にあるハンニバル像です。
右は2006年に作られたイギリスのテレビ映画『ガーディアン・ハンニバル戦記』で、
ハンニバルを演ずるのはアレクサンダー・シディングです。
ルーヴルのものよりもこちらの方が、カルタゴ人っぽいですね(笑)。

さて、普通であれば、イベリア半島(スペイン)から、ローマを攻撃する場合、
艦隊を編成して海路でシチリア・イタリア方面に攻め込むか、
あるいはいったん北アフリカを東進して、
カルタゴ本国からシチリア経由でイタリアに北上するのが妥当な作戦です。
しかしハンニバルは、誰もが考えつかない作戦を立てたのです。
それは、イベリア半島(スペイン)から陸路で北上し、今の南フランスから
アルプスを越えて、北からイタリア北部へとなだれ込むというものでした。
スペインから南フランスを抜け、アルプスを越える北回りのルートで
待ち構えている難所は大きく3つあります。
まず今のスペインとフランスの間に横たわるピレネー山脈、
次が今の南フランスを北から南へと流れるローヌ川、
そしてなんと言っても最大の難所はアルプス山脈です。

紀元前218年8月(あるいは5月)、
ハンニバルは、カルタゴ・ノウァ(今のカルタヘナ)を出発し、
ローマとの不可侵条約で決められていたエブロ川を渡り、ピレネー山脈に向かいます。
ビレネー越えにかかった時点でのハンニバルの兵力は、
歩兵5万、騎兵9千、象37頭だったと言われています。
紀元前2世紀のギリシアの歴史家ポリュビオスによると、歩兵6万、騎兵1万1千です。
ビレネー山脈は、アルプスほど峻険ではありませんが、
しかし行き来が容易な単なる山という訳でもありません。
それに少なからず、カルタゴに対して敵意を持つ土着部族もいたようです。

フランス側から見たピレネー山脈
それでもあまり兵力の損失を出すことなく、ハンニバルはピレネーを越えたようです。
その後は、今のペルピニャン、ナルボンヌ、モンペリエ近くを通り、
このあたりに住んでいたケルト系ガリア人の抵抗なども排除しつつ、
今の南仏プロヴァンスにあるローヌ川沿いのアヴィニヨン近くまで進軍して来ました。

上の地図の南フランス部分の拡大図
しかしこの頃になると、ローマの側でも、ハンニバルがどうやら
北からイタリアに進もうとしていることに気づきます。
ローマの執政官コルネリウス=スキピオ率いるローマ軍24200は、
海路ピサからマッサリア(今のマルセイユ)に到着し、
ハンニバルがローヌ川を渡ってアルプスにかかる前にこれをたたこうとします。

④第2次ポエニ戦争/ハンニバル、ローヌ川を越える
一方、ローヌ川の西岸(左)に宿営をしていたハンニバルの方も、
ローマ軍がマッサリアまでやって来たことを知り、
彼らが攻撃を仕掛けてくる前に、なんとしてもローヌ川を渡って
アルプス方面へ進みたいと考えました。
次の文章はデ・ビーアという歴史家の『ハンニバルの象』という本からの文章です。
少し長いですが、引用しておきます。
「ハンニバルは、その場にいた船頭から、
利用できる全部の大型の舟と皮張りの籠舟を手に入れた。
川と海を往来して交易するのに使われていたので、舟の数はとても多かった。
これらの舟に自分で作った筏[いかだ]を加え、ハンニバルは3万8千人の歩兵と
8千人の騎兵が川を渡るのに充分な舟を確保した。[……]
ハンニバルの37頭の象を渡らせるのはたいへんな仕事だった。
彼は長さ60メートルほどの桟橋を作り、川の中に突き出して、
端の方に長い筏を結びつけ、土で覆って、それを地面のつづきだと象に思わせようとした。
2頭の雌象が怪しまずに導かれて筏に乗り、雄たちも静かにその後につづいた。
[……]ローヌ川を渡った後、ハンニバルはゴール人の首長たちの代表を迎えた。
彼らはボィイ族の王マジルに率いられ、
ローマ人に対抗するカルタゴ人の援助を歓迎するため、
イタリア側からアルプスを越えてやって来たのだ。
これは現代なら軍事使節というところだ。」
(ギャヴィン・デ・ビーア『ハンニバルの象』時任生子訳、博品社、1996年、49-51頁)
ローヌ川はこのあたりでは流れは急ではありませんが、
川幅はかなりあります。しかも水深も深いです。
ここを数万の兵士や象を渡らせるのは大変なことでした。

カルタゴ軍が渡ったと思われるあたりのローヌ川

ハンニバルのローヌ渡河(アンリ=ポール・モット、1878年)
ハンニバルは、ローヌ川の東岸にいたカルタゴに対して反抗的な土着ケルト部族に
ローヌ渡河を妨害されないように、カルタゴ軍の別働隊をもっと北から密かに川を渡らせて、
そうした土着ケルト部族の側面を襲わせました。
そうしてケルト部族が混乱している間に、筏をつなぎ合わせた桟橋に象を乗せて、
無事にローヌ川を渡ったのでした。
マッサリアに着いていたコルネリウス=スキピオ率いるローマ軍が、
カルタゴ軍の渡河地点に着いた時には、すでにそこはもぬけの殻で、
ハンニバルはすでにアルプス越えにかかっていました。
ローマ軍は戦わずして、むなしく引き返すこととなります。
ローヌ川を渡ったハンニバルが、アルプス越えにかかった時の兵力は、
歩兵38000、騎兵8000、象37頭になっていました。
スペインを出た時から数えると、およそ1万人以上が帰還、あるいは脱落したことになります。

ガリア(今のフランス)におけるハンニバルの行軍について書かれたフランスの本の表紙。
(AVRIL, Marie-France, Itinéraires d'hannibal en Gaule)
⑤第2次ポエニ戦争/ハンニバル、アルプスを越える
ローヌ川を越えた後、紀元前218年の秋10月、ハンニバルはスペインから引き連れてきた
カルタゴ軍とともに、アルプスを越えて、今の北イタリアのトリノに向かいます。
ハンニバルがどのルートを通ってアルプスを越えて、
トリノに至ったのかについては、諸説あってはっきりとは確定されていません。

最も北を通った場合は、今のフランス・ドローム県のイゼール川沿いに東進し、
グルノーブルからル・シャ峠を越えるルートになります。
もっと南を進んだ場合は、ドローム川沿いに東進し、ディー(Die)や
アンブラン(Embrun)付近を通過して、標高2947メートルの
トラヴェルセッテ峠(現在のフランス・イタリア国境)を越えて、トリノに至ります。
どちらかと言うとこの南ルート、
すなわち「トラヴェルセッテ峠」(Col de la Traversette)を
越えるルートが有力視されているようです。
2016年になって微生物学者のクリス・アレンや、地質学者のウィリアム・マハニーなどが、
この峠付近で、数千にものぼると思われる人間や馬の便の堆積物を発見し、
炭素同位体分析の結果から紀元前218年頃のものと推定されるというニュースが流れました。
これが真実だとすると、まさしくハンニバルとカルタゴ軍の
アルプス越えの証拠ということになりますね。
それにしても2200年前の数千もの人と馬の便の堆積物って、すごい話です。
さていずれにせよ、10月のアルプスは、真冬ほどではないにしろ、すでにかなり積雪があり、
数万の兵士と37頭の象を連れて3000メートル近い峠を越えるのは、
大変なことであったと思われます。
アルプスのケルト系原住民(アロブロージュ族、ケウトロネス族)の襲撃、
危険な峡谷、雪の峠などが、ハンニバルの前に立ちふさがったと言います。
この南ルートを実際に西のフランス側からたどってみましょう。
私はレンタカーで走りましたが(2010.3.11)、もちろんそんなクルマの走るような道路は、
今から2200年前にはあるはずがありませんね。

ディーから東へ向かう

アンブランの西方。雪をいただく巨大な岩山。

アンブラン遠望。この先から、本格的なアルプス越えのルートとなる。
ハンニバルが越えた可能性が高いとされる「トラヴェルセッテ峠」は、
今でもクルマの通れる道路がなく、さすがに私も行けませんでした。
次の画像はネットで拾ってきた「トラヴェルセッテ峠」の画像です。

古代ギリシアの歴史家ポリュビオスによれば、
ハンニバルはこのアルプス越えに15日かかったそうです。

雪のアルプスを越えるカルタゴ軍
ハンニバルがアルプスを越えて北イタリアのポー川平原に出た時には、
歩兵20000、騎兵6000、象20頭に減っていました。
このアルプス越えによって、カルタゴ軍は
歩兵・騎兵合わせておよそ2万も失ったことになります。
あまりの寒さに凍死したり、崖から滑落したり、逃亡したりした者が多かったそうです。
37頭いた象も、17頭が崖から落ちたりして死んだようです(下の絵の黄色い矢印)。
人間たちの争いの都合でアフリカからはるばる雪のアルプスくんだりまで連れてこられて、
挙げ句の果てに崖から落ちるなんて、思えば気の毒な話ですね。象も大変です。

ところで、古代のハンニバルと同じように、軍隊を率いて雪のアルプスを越えた男がいます。
フランスの英雄ナポレオンですね。
1800年5月、ナポレオンは、4万の兵と共に、アルプスのスイス・イタリア国境である
グラン・サン・ベルナール峠(2469m)を越えて、北イタリアにいるオーストリア軍を急襲し、
マレンゴの戦いで勝利を収めました。
そしてその4年後にはパリのノートルダム大聖堂においてフランス皇帝に戴冠しました。
ナポレオンは、雪のアルプスを越えている時に、
2000年前に同じようにして軍隊を率いてアルプスを越えたハンニバルのことが
頭に思い起こされたのでしょうか?

アルプスを越えるナポレオン(ダヴィッド、1801年)
さて、古代に話を戻して本日は終わりましょう。
アルプスを越えたところの平原で、ハンニバルは全軍に15日間の休息を与えました。
苦労してやっとアルプスを越えたわけですが、
ハンニバルとカルタゴ軍を、アルプスよりもさらに手強い、本当の敵が待ち構えていました。
言うまでもなく、それはローマ軍でした。
次回は、第2次ポエニ戦争における、ハンニバルとローマ軍の戦いを取り上げます。
※ポエニ戦争とハンニバルについての参考文献は、次回の最後に掲載します。
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| 次回は4月29日(木)の午前中に、第6回目の授業内容をこのサイトにアップします。 http://wars.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。 |
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