ヨーロッパの戦争と文明/第4回(4月22日・木曜3限)
             アレクサンドロス大王のインド侵入(前半)
(※画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込みすると表示されると思います)

★★本日は、授業の後で小レポートの提出があります。このページの最後で告知します★★


今回は、アレクサンドロス大王の東征(アジア遠征)の続きです。
今日の「後半」は、ちょっと長くなります。

さてアレクサンドロスは、宿敵ペルシア帝国を滅ぼした後、
配下の軍団を引き連れて、さらに東へ向かい、とうとうインドに侵入します。

前回と同じく、先に関係する年表を挙げておきます。
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【年表】
紀元前331年 ガウガメラの戦い。ダレイオス3世のペルシア軍壊滅。
紀元前330年 ペルシア王ダレイオス3世、臣下(ベッソス)の裏切りで暗殺。
       
ペルシア帝国滅亡。
紀元前329年 アレクサンドロス、中央アジアのバクトリア遠征。
紀元前327年 
カイバル峠を越えてインドに侵入。
紀元前326年 
ヒュダスペス川の戦いインド・パンジャブ地方太守ポロスの軍を撃破。
紀元前324年 アレクサンドロス、バビロンに凱旋。
紀元前323年 アレクサンドロス、
バビロンで病死。
       後継者戦争(ディアドコイ戦争)始まる。
紀元前272年 共和政ローマ、イタリア半島を統一。
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①アレクサンドロス、カイバル峠を越える(紀元前327年)        
アレクサンドロスは、紀元前329年にバビロンを発ち、
中央アジアで彼に対して反乱を起こしたバクトリアなどに対する鎮圧を行いました。
その2年後の紀元前327年、今度はさらに東へ向かい、数万からなる兵を率いて
カイバル峠を越えてインドに侵入します。
彼の東方に対するこの飽くなき進撃は何を意味するのでしょうか?

インドどころか、さらに東南アジアから中国に攻め込むつもりだったのでしょうか?
彼の世界征服に対する「
野望」だったのか、あるいは「」だったのか、
そのあたりのことは本人に聞いてみないと判りませんね。

アレクサンドロスが、もしもずっと快調に進撃を続けていたら、
もしかしたら中国の後は、日本にまで攻め込んでいたかも知れません。
でも紀元前4世紀は、日本はまだ弥生時代初め頃で、防御を施した集落と言っても、
せいぜい堀(環濠)と木の柵を巡らした程度です。
あっというまにマケドニア軍に占領されて、
「マケドニア帝国ヤマト辺境領」みたいになっていたかも知れませんね(笑)。
ただしこの時代はまだ「ヤマト」政権もありませんけど。

おっと冗談が過ぎました。
想像するのは楽しいのですけど、歴史に「もしも」は禁句ですね。
アレクサンドロスの東征に話を戻しましょう。


紀元前327年、アレクサンドロスはおよそ2万の軍団を率いて、
カイバル峠を越えます
(ただしこの峠越えには異説もあるようです。念のため)
このカイバル峠は、現在のパキスタンとアフガニスタンの間にある峠で、
パキスタンの北西端に位置し、最高地点の標高は約1070メートルです。
南アジアと中央ユーラシア地域を結ぶ交通の要衝で、
古くからさまざまな民族や軍隊がここを通って行きました。
まさに
「文明の交差点」ですね。。
シルクロードから南下してインドに向かう際の交易路としても重要な役割を果たしてきました。

インドは、ヒマラヤ山脈、スレイマン山脈、大インド砂漠(タール砂漠)などに囲まれた地域で、
外部からの侵入は容易ではありませんでた。
そのため、このカイバル峠は古代より数少ないインドへの侵入路となっていました。
現代でも、アフガニスタンをめぐる争いの際に、イギリス軍や、ソ連軍がここを通っています。
現在はアジアハイウェイ1号線の一部となっています。

西方(ギリシア方面)から見た時、このカイバル峠は、ペルシアよりもさらに遠いアジアとの境
のように思われていたのかも知れません。
「カイバル峠」を越えたら、本格的な東洋(インド、そしてさらにその先の中国)だ、
みたいな感じでしょうか。
大友克洋・矢作俊彦のマンガにも出てきます。

大友克洋・矢作俊彦『気分はもう戦争』(双葉社、1982年)より。

現在のカイバル峠の様子は以下の写真の通りです。ネットから拾ってきました。
実は私は、今までこのカイバル峠を越えたことはありません。
人生で一度は越えてみたいと思っていたのですが、ちょっと無理そうですね。



今でもこの地域の物流にとって大動脈なので、延々と続くトラックの列が見えます。

ちょっと脱線ですが、その昔、1988年に私が留学のためにフランスに滞在していた時のこと、
大学を5月に1週間ほど「自主休講」して、ギリシアに旅行に行きました。
ギリシアは、まだ5月だというのに夏のように暑かった。

アテネに着いて、観光案内所(ツーリスト・インフォメーション)に行ったら、
同じ日本人の若いバックパッカーの青年と出会いました。
当時27歳だった私と同じくらいの歳の人でした。
観光案内所でちょっとだけ立ち話をしました。
その彼が言ってました。

「ボクはこれからバスやヒッチハイクで、
パキスタンを越えてインドまで行ってみたい。
アフガニスタンはまだ政情不安なので、どこまで行けるか分からないけど、
とりあえずカイバル峠を越えてパキスタン国境までは行ってみようと思う。」

世の中にはすごい人がいるな~、と思いました。
「とりあえずカイバル峠を越えてパキスタン国境まで」には参りました。。
自分にはとてもそんなことは出来ないと思いました。
フランスから飛行機でギリシアに来るぐらいがせいぜいです。

その青年とは観光案内所で別れました。
彼はあのあと、ちゃんとカイバル峠を越えられたのでしょうか?
今から30年以上前の話です。
彼はその後、日本で普通にサラリーマンとかしているのでしょうか?
ちょうど皆さんのお父さんと同じぐらいの歳か、それよりちょっと上くらいだと思います。
結婚して奥さんや子供さんとかいて、幸せな家庭を営んでいるのでしょうか?
「お父さんは、その昔まだ若い頃、カイバル峠を越えたんだよ」
みたいに、子供さんに語ったりしているのでしょうか?

私はもう無理だと思いますが、
皆さんの中には、ひょっとしたらアレクサンドロス大王のように、
そして私がかつてアテネで会ったこの青年のように、
将来「文明の交差点」であるカイバル峠を越える人がいるかも知れませんね。
その時には、お土産話を楽しみにしています(笑)。


すみません、アレクサンドロスとはあまり関係ない話になってしまいました。


第4回目の授業の「前半」はここまでです。
「後半」は、アレクサンドロスとインド軍との戦いである
ヒュダスペス川の戦い(紀元前326年)です。

  →第4回 アレクサンドロス大王のインド侵入/後半に続く


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