ヨーロッパの戦争と文明
第3回(4月19日・月曜3限)/アレクサンドロス大王の東征(後半)    


第3回後半では、東征(アジア遠征)の開始とガウガメラの戦いまでを扱います。


⑤イッソスの戦い(紀元前333年)                  
アレクサンドロスの父であるフィリッポス2世が暗殺された後、
マケドニアの北部や、支配下に収めていたギリシアで反乱が起こります。
マケドニア国王に即位したアレクサンドロスはこれらの反乱を鎮圧します。
そして支配下にあったギリシアの軍をも含めた
マケドニア・ギリシア連合軍を率いて、紀元前334年の22歳の時、
いよいよ
東征(アジア遠征)に出発しました。

アレクサンドロス大王が東征(アジア遠征)を開始した時点での勢力地図は次の通りです。
マケドニアとペルシアの大きさの違いは歴然ですね。



アレクサンドロスが率いた軍の兵力は、騎兵(ヘタイロイ)1800、歩兵3万~4万3千、
ギリシア諸国からの騎兵600と歩兵7000、その他含めて
総数で65000~10万であったと言われています。

ペルシア制圧の前哨戦であるグラニコス川の戦い(紀元前334年)のあと、
アレクサンドロスは紀元前333年、
イッソスの会戦において、
初めてペルシア王ダレイオス3世と直接対決しました。
このイッソスの戦いの様子を描いたモザイク画が、
イタリアのポンペイの住宅の遺跡(ローマ時代)から発見されています。

  
アレクサンドロス大王とペルシアのダレイオス3世(ポンペイの壁画)


この戦いはアレクサンドロスの勝利に終わり、敗れたダレイオスは、
持参して来ていた巨額の財宝のみならず、
なんと自分の母親、妃、王女たち、王家の子女たちをも戦場に置き去りにしたまま、
自分はさっさと逃亡してしまいます。
置き去りにするくらいなら、最初から戦場に連れてくるなよ、って感じです(笑)。

置き去りにされた方は、たまったものではありませんね。
みんなアレクサンドロス側の捕虜になってしまいました。




紀元前332年、アレクサンドロスは小アジア(今のトルコ)から南に向かい、エジプトまで進みます。
エジプトには自分の名前を冠した都市、アレキサンドリアを建設しました。

⑥ガウガメラの戦い(紀元前331年)                 
紀元前331年、アレクサンドロスは、エジプトからいよいよペルシア本国へ向かい、
ガウガメラにおいて、再びダレイオス3世率いるペルシア軍と対決しました。
この戦いは「アルベラの戦い」とも言いいます。
おおよその場所を下の地図で確認しておきましょう。
正確な場所は特定されていませんが、今のイラクの北部、トルコとの国境近く
ではないかとされています。


1.兵力
両軍の兵力は次の通りです。

ペルシア軍の兵力:20数万の歩兵と騎兵、200台の鎌付戦車、15頭の象。
マケドニア軍の兵力:5万弱(歩兵4万、騎兵7千)。

これを見ると、やはり圧倒的にペルシア軍の方が多く、兵力差は歴然としています。
ペルシア軍の兵力は、一説には100万とも言われています。
しかしそれはあまりにも信じがたい数字なので、せいぜい20数万だったと思われます。
しかもペルシア軍の兵士たちには、それぞれ付き添いや家族などがいたとも言われ、
20数万の人間がすべて「兵士」であったとは言えないようです。
いずれにしても、数の上ではペルシア軍の兵力の方が、
アレクサンドロス軍よりも断然有利であったことは確かです。



2.両軍の布陣
ペルシア軍は、5キロにわたって布陣し、第1列は騎兵、第2列は歩兵とし、
それに加えて最前列には車輪に大鎌をつけた戦車200台を配置しました。
マケドニア軍は、中央に歩兵による密集方陣(ファランクス)、その左右両翼に騎兵部隊、
中央部右側にアレクサンドロス自身の率いる騎兵隊(ヘタイロイ)がありました。
そして両翼の部隊は、中央部の戦列に対して角度をもたせて配置しました。
これは敵(ペルシア軍)が、両翼から回り込んでこちらを包囲しようとするのに備えるためでした。
下の図は、上の赤がペルシア軍、下の青がアレクサンドロス率いるマケドニア・ギリシア連合軍です。
青い星印がアレクサンドロス自身のいる位置です。





3.戦闘開始
まずマケドニア軍が、全体として右へ移動しました。
それに応ずるようにペルシア軍左翼も左へと動きました。



アレクサンドロス率いる騎兵部隊は、さらに右へと移動し続けました。
ダレイオスはマケドニア軍右翼が、自軍左翼側面に回り込んで来るのを嫌って、
自軍左翼の騎兵部隊に、マケドニア軍右翼を包囲するよう命じました。



中央部でもペルシア軍が前進し、鎌付き戦車隊がマケドニア軍正面へ突撃しますが、
マケドニア側はうまくこれをかわしたため、効果はありませんでした。
紀元2世紀のローマのギリシア人歴史家アッリアノスは、次のように書いています。

「ペルシア側は相手の密集歩兵部隊を攪乱しようと、
大鎌付きの戦車隊をアレクサンドロス目がけて真っ向から発進させていた。
けれども彼らはこの目論見では、ほとんどまったく期待はずれに終わった。
[……マケドニア軍の]兵士たちは戦車が突進してきたところでは、
かねて指示されていたとおりに戦列を解き、左右に散開したからである。」
(アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』上巻、岩波文庫、215頁。訳文一部改変)


マケドニア軍に突撃するペルシア軍の鎌付き戦車


4.中央突破
ペルシア軍の中央および左翼が、今や全面的にマケドニア軍の
中央および左翼に襲いかかって、各所で激戦となります。
マケドニア軍右翼の騎兵部隊は、引き続きペルシア軍左翼の騎兵部隊を引き寄せ続けています。


その時、上の図を見ても分かるように、
ペルシア軍の中央部と左翼の間に「間隙(すき間)」が生じました。
恐らくは、アレクサンドロスが最初に自軍の右翼騎兵部隊を右へ右へと移動させたのは、
敵であるペルシア軍左翼の騎兵部隊をそれに引きつけて
この「間隙」を作り出すことが目的であったのだと思われます。
ペルシア軍はまんまとそれに引っかかったわけですね。

アレクサンドロスは、待ってましたとばかりに左に方向転換して、
自ら率いる騎兵部隊と共に、
その「間隙」に向かって自ら突進してゆきます。

アレクサンドロスはこのチャンスを逃さず、くさび型の突撃態勢を組んで、
ペルシア軍中央にいた
ダレイオス本人に向かって殺到していきました。
このあたりのことをアッリアノスは次のように書いています。

「そのころ[マケドニア軍の]右翼を回りこもうとしていた
敵[ペルシア騎兵隊]に当たらせようと派遣した支援の騎兵隊が、
ペルシア側の歩兵部隊の戦列前面に、ある程度の切れ目を生じさせたと見るや、
彼はその切れ目部分へと馬首をめぐらせ、ヘタイロイ騎兵隊と
その場に配置されていた歩兵部隊の一部とで、
くさび型[の突入隊形]をつくらせるなりこれを手勢に、
ときの声をあげてまっしぐらにダレイオス当人のいる方向へと突っ込んだ。」
(アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』上巻、岩波文庫、216頁。訳文一部改変)




こうなると、もともと臆病者であったダレイオス3世は、
もはやどうすることも出来ません。完全に動転して、退却を始めます。
自分たちの王がスタコラサッサと逃げたのを見て、
ペルシア軍中央もぞくぞくと潰走を始めました。
ペルシア軍の一部の部隊が、マケドニア軍中央を突破して、
後方にあったマケドニア軍の補給基地を襲いました。




ペルシア軍右翼と激突していたマケドニア軍左翼の指揮官パルメニオンは、
アレクサンドロスに救援要請を行います。
アレクサンドロスは逃げるペルシア軍を追撃するのをやめて、
パルメニオン部隊の救出に向かいます。
そしてパルメニオン部隊を襲うペルシア兵を攻撃、これを壊滅させました。



ペルシア軍は完全に壊滅し、残った兵士たちは散り散りになって
戦場から逃亡してゆきました。




ガウガメラの戦いにおけるペルシア側の損害は、
アッリアノスによれば30万です。
それに対してアレクサンドロス率いるマケドニア側はたったの100名でした。
アレクサンドロスの完勝でした。

自分よりも兵力で勝る敵に向かう時には、さまざまな策を巡らせて
敵部隊の中に「間隙」を生じさせ、そこに一気に突入して
敵を分断すると同時に混乱に陥らせる。
そしてその勢いをもってそのまま敵部隊を各個撃破してゆく、
というアレクサンドロス得意の戦法が成功しました。
(ちなみに近代になって同じような戦法を駆使した、もう一人の「英雄」がいます。
言うまでもなくそれは、ナポレオンですね。)

さらにガウガメラの勝敗を分けたのは、軍全体と統率と、規律訓練の差であったとも言われます。
アレクサンドロスというリーダー自身の統率力と意志の力がものを言ったわけです。
一方のペルシアのダレイオス3世には、それが欠けていたということですね。


ガウガメラにおけるダレイオス3世(映画『アレキサンダー』より)


ガウガメラと推定される場所。今から2300年ほど前に、このあたりで戦いが行われました。



⑦アレクサンドロスのバビロン入城とペルシア帝国の滅亡              
ガウガメラの戦いの後、紀元前331年のうちに、アレクサンドロスは
ペルシア帝国の主要都市であった
バビロンに入城します。

ガウガメラから逃げたペルシア王のダレイオス3世は、
再び軍を編成しようとしますが、ベッソスという部下に殺されてしまい、
ここに
アケネメス朝ペルシア帝国は滅亡しました(紀元前330年)。
余談ですが、アレクサンドロスはダレイオス3世の娘スタテイラと結婚しています。
かつての敵の娘との結婚は、新しい支配地を懐柔するためであったろうとも言われています。
いずれにしても、今や、旧ペルシア帝国の支配領土はすべてアレクサンドロスのものとなりました。


次回(第4回目の授業)では、アレクサンドロス大王のカイバル峠越えとインド侵入について取り上げます。


 今回は、小レポートやその他の提出物などはありません。

※最初の小レポートの提出は、次回第4回目の授業が終わったところで予定しています。

次回は4月22日(木)の午前中(11~12時頃)に、第4回目の授業内容をこのサイトにアップします。
 
http://wars.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。


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【第3回の授業に関する参考文献】
『歴史群像アーカイブ/vol.04/西洋戦史 ギリシア・ローマ編』学習研究社、2008年9月。
足利惇氏『世界の歴史・第9巻/ペルシア帝国』講談社、1977年。
市川定春『古代ギリシア人の戦争-会戦事典800BC-200BC』新紀元社、2003年。
桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5/ギリシアとローマ』中央公論社、1997年
森谷公俊『王宮炎上-アレクサンドロス大王とペルセポリス』吉川弘文館、2000年
森谷公俊『王妃オリュンピアス-アレクサンドロス大王の母』
                        ちくま新書、筑摩書房、1998年。
サイモン・アングリムほか『戦闘技術の歴史1/古代編・3000BC-AD500』
                     松原俊文監修、天野淑子訳、創元社、2008年。
アーサー・フェリル『戦争の起源~石器時代からアレクサンドロスにいたる戦争の古代史』
                               河出書房新社、1999年。
アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記・上巻・付インド誌』
                           大牟田章訳、岩波文庫、2001年。
ハリー・サイドボトム『ギリシャ・ローマの戦争』
                      吉村忠典・澤田典子訳、岩波書店、2006年。
ニック・セカンダ『アレクサンドロス大王の軍隊/東征軍の実像
       (オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)』
                           柊詩織訳、新紀元社、2001年。
ジェフリー・リーガン『ヴィジュアル版「決戦」の世界史-歴史を動かした50の戦い』
                          森本哲郎監修、原書房、2008年。

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