ヨーロッパの戦争と文明/第3回(4月19日・月曜3限)/アレクサンドロス大王の東征(前半)
(※ページの画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込みするとちゃんと表示されると思います)
「ヨーロッパの戦争と文明」の第3回と第4回は、世界史の中でも
古代ローマのカエサル(シーザー)と並んで比類なき英雄とされている
マケドニアのアレクサンドロス大王と、彼が行った壮大な東征(アジア遠征)について、
2回に分けて取り上げます。
本日・第3回目は、アレクサンドロスのマケドニア国王即位から東征の開始、そしてペルシア帝国の征服まで。
次回・第4回目は、アレクサンドロス軍のインド侵入と大帝国の成立、そして大王の死まで。
まずは今回(第3回)に関わる年表を挙げておきます。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【年表】
紀元前431年~404年
ペロポネソス戦争。アテナイ率いるデロス同盟 vs スパルタ率いるペロポネソス同盟。
アテナイの降伏により、ペロポネソス戦争終結(スパルタの勝利)。
紀元前395年~387年
コリント戦争。アテナイ・コリント同盟 vs スパルタ・ペルシア同盟。スパルタ側の一時的勝利。
紀元前371年 レウクトラの戦い。テーバイ(テーベ)vs スパルタ。テーバイの勝利。
紀元前338年 マケドニアのフィリッポス2世、カイロネイアの戦いにて、アテナイ・テーバイ連合軍を撃破。
フィリッポス2世は、ヘラス同盟を作り、全ギリシアを支配。
紀元前336年 マケドニアのフィリッポス2世、暗殺。アレクサンドロス、20歳にてマケドニア王に。
紀元前334年 アレクサンドロス、東征開始。ペルシアに侵攻。(22歳)
グラニコス川の戦い。ペルシアを破る。
紀元前333年 イッソスの会戦。ダレイオス3世のペルシア軍に勝利。
紀元前331年 ガウガメラの戦い。ダレイオス3世のペルシア軍を壊滅させる。バビロン入城。
紀元前330年 ペルシア王ダレイオス3世、臣下の裏切りで暗殺。ペルシア帝国滅亡。
アレクサンドロス、ペルシア領を併合。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
①古代ギリシアの都市国家の衰退
前回扱った古代ギリシアの都市国家世界は、ペルシア戦争に勝利したまでは良かったのですが、
その後、ポリス(都市国家)同士の内輪争いが激化します。
ペルシア戦争に勝利してギリシアの覇権を握ったアテナイですが、
その力があまりに強大になることを恐れたスパルタなどがペロポネソス同盟を組んで、
アテナイが盟主となったデロス同盟と戦います。
紀元前431年から紀元前404年までの27年間にわたってさまざまな戦いが行われます。
その時々によって味方や敵が入れ替わるという、
訳の分からない複雑な戦争状態が慢性的に継続し、そうした混乱の中で、
ギリシアの都市国家は全体として衰退に向かいます。
このようなギリシア世界の混乱に乗じて台頭してきたのが、
ギリシアの北部にあったマケドニア王国でした。
紀元前338年のに、アテナイとテーバイの連合軍はマケドニア王国軍に敗北し、
ギリシア世界はマケドニアの支配下に置かれることとなりました。

青く囲った部分の、上半分がマケドニア王国です。
②マケドニア式のファランクス(密集方陣)
ギリシアの都市国家軍を打ち負かしたマケドニア軍の強さは、マケドニア式の密集方陣にありました。
重装歩兵が形作るこの密集方陣を「ファランクス」と言います。
もちろんこれまでのギリシアにも密集方陣はありました。
しかしマケドニアのフィリッポス2世(在位BC359-336年、アレクサンドロスの父)が
考案したマケドニア式のファランクスは、
従来のギリシアのものよりも、防御と攻撃の点でさらに優れていました。
横16列、縦16列という大きなもので、さらに武器として
重装歩兵たちはギリシア式のファランクスよりも長い「サリッサ」という槍(ヤリ)を持ちました。
これは5メートル、あるいは6~7メートルあったとも伝えられています。
戦闘に備えてこの槍を、真上から前に水平に下げた時は、前から第5列目の兵士の槍先が
最前列の兵士よりも前に突き出ました。

マケドニアの密集方陣(フェリル『戦争の起源』より)
またまたマケドニアの密集軍は、容易に弧を描くように向きを変えて、
どの方角からの敵とも対面できるように訓練されていました。

真横(右)に向きを変える方陣(映画「アレクサンダー」より)
このファランクスを中心として、その両側に騎兵と軽装備歩兵の部隊を配し、
密集方陣部隊が敵の攻撃を引きつけて受け止めて抑えている間に、
騎兵や軽装歩兵部隊が敵の戦列に生じた間隙に突入するというやり方を取りました。
このマケドニアのファランクス(密集方陣)は、
言わば「向かうところ敵なし」の強さを発揮しました。
③マケドニアの重装騎兵(ヘタイロイ)
さらにマケドニア軍では騎兵に威力がありました。
ギリシアのこれまでの戦いでは、騎兵はあまり重要視されていませんでした。
しかしフィリッポス2世は、騎兵を強力な戦力に変えました。
マケドニアでは、騎兵は重装騎兵となり、歩兵同様に長い槍(サリッサ)を持ちました。
1大隊は約200騎からなり、14~15大隊で総計2500~3000名の騎兵を擁しました。

マケドニアの重装騎兵ヘタイロイ(『歴史群像・西洋戦史』より)
先にも触れましたが、
重装歩兵による密集方陣が敵の正面からの攻撃を引き受けてこらえている間に、
この騎兵部隊が中央突破・正面突撃を行いました。
マケドニア軍の騎兵は「ヘタイロイ」と言います。
これは「国王の友」とか「仲間」といった意味で、精神的にも団結力を誇り、
戦場ではすさまじい強さを発揮したのでした。
④フィリッポス2世の死、アレクサンドロスの即位と東征の開始
こうしてマケドニア軍を古代世界最強の軍隊に作り替え、
紀元前338年にはカイロネアの戦いに勝利して
ギリシア世界を支配下に置いたフィリッポス2世でしたが、
紀元前336年10月に、護衛の者に暗殺されるというあっけない最期を迎えます。

フィリッポス2世
この犯人である護衛の背後に、果たして黒幕が誰がいたのかということについては、
諸説あってはっきりしません。
別れた妻の差し金だとか、あるいは息子のアレクサンドロスが糸を引いていたのではないか
とする説まであるようです。
そのアレクサンドロスですが、生まれは紀元前356年、マケドニアの首都ペラにおいてです。
正式には「アレクサンドロス3世」ですが、普通は「アレクサンドロス大王」と呼びます。
13歳から16歳くらいまでの間、家庭教師のもとで教育を受けますが、
この家庭教師というのが、古代ギリシア世界でもソクラテス、プラトンと並び称される
当代きっての大哲学者アリストテレスでした。
すごいですね、西洋の哲学史・学問史の中で燦然と輝くアリストテレスから
手取り足取りさまざまなことを学んだわけです。
チョー英才教育、と言うか、ものすごい帝王教育を施されたわけですね。

アリストテレス(右)から教えを受ける若きアレクサンドロス(左)。
アレクサンドロスは、暗殺された父親フィリッポス2世の跡を継いで、
紀元前336年、弱冠20歳という若さでマケドニアの王位を継ぎます。
今のみなさんと、ほとんど同じくらいの年齢ですね。
かねてよりアリストテレスから、この世界についてのさまざまな知識、
とりわけ東方(ペルシアやアジア)についての話を聞かされていたことが
大きかったのかも知れません。
まるで東方への夢をかなえるかのように、そしてまるで何かに取り憑かれたかのように、
マケドニア・ギリシア連合軍を率いて、紀元前334年から10年にもわたる
東方への大遠征を開始するのです。

アレクサンドロス大王。フランスの歴史雑誌の特集号表紙。
第3回目の授業の「前半」はここまでです。
「後半」は、アレクサンドロスとペルシア帝国のダレイオス3世の直接対決である
ガウガメラの戦い(紀元前331年)についてです。
| →第3回目の後半に続く |