ヨーロッパの戦争と文明/第2回(4月15日・木曜3限)/古代ギリシアとペルシア戦争(後半)


③ペルシア戦争(紀元前500/499年~449年)           

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【年表】
紀元前500年~ イオニア植民地がアケメネス朝ペルシアに反乱
              (BC499~あるいはBC498~とも)。
        アテナイとエレトリアがイオニア諸都市を支援。
紀元前493年  ペルシア(ダレイオス1世)、イオニアの反乱を鎮圧。
紀元前492年  ペルシアの
第1回ギリシア遠征開始(マルドニオスの遠征)。
        目標はアテナイとエレトリア。ペルシアは途中で撤収。
紀元前490年  ペルシアの
第2回ギリシア遠征(ダティスとアルタプレネスの侵攻)。
        
マラトンの戦い(8月)。ミルティアデス指揮下のアテナイ軍、ペルシア軍を撃破。
紀元前480年  ペルシアの
第3回ギリシア遠征(国王クセルクセス1世の親征)。
        
テルモピュライ(テルモピレー)の戦い(8月)。スパルタ軍全滅。
        テルモピュライ・アルテミシオン防衛線の崩壊。
        ペルシア軍、アテナイを占領。アクロポリスを攻略し破壊。
        ギリシア連合艦隊、
サラミスの海戦でペルシア艦隊に勝利(9月)。
        ペルシア軍(クセルクセス1世)の撤退。
紀元前479年  残存ペルシア軍、再度アテナイに侵攻。
        プラタイアの戦い。ギリシア連合軍(アテナイ、スパルタ、コリントス)が勝利。
紀元前477年   アテナイを盟主としてデロス同盟成立。アテナイはギリシアの覇権を握る。
紀元前449年  ギリシアとペルシアの和睦成立(カリアスの平和)。
紀元前443年~ ペリクレスの執政(~429年)。アテナイ民主政の全盛期。
紀元前431年~ ペロポネソス戦争。
        アテナイ率いるデロス同盟 vs スパルタ率いるペロポネソス同盟。
紀元前404年  アテナイの降伏により、ペロポネソス戦争終結(スパルタの勝利)。


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さて、いよいよペルシア戦争が始まります。
ここでペルシア帝国について確認しておきましょう。



これは紀元前400年代(5世紀)頃の勢力地図です。
ペルシアはアケネメス王家が支配する「
アケネメス朝ペルシア」です。
今のトルコからイラクやイラン、エジプトの一部、そしてインドの手前の
パキスタンにまで至る広大なエリアを支配していました。
アケネメス家の大王が専制君主として君臨する大帝国ですね。
一方、それに対してギリシアは、ペルシア帝国に比べるととっても小さいです。
単純に領土の大きさだけで見たら、小さなギリシアは
大帝国ペルシアの敵ではありませんね。

でも、このページの一番最初に示した「年表」を見ると分かるように、
ペルシア帝国は、紀元前492年から3回にもわたってギリシアを攻めるのですが、
3回とも勝利することが出来ませんでした。


まず最初に、
紀元前500年頃から、ペルシア帝国の植民地であった今のトルコ西部の
イオニア地方の諸都市がペルシアに対して反乱を起こします。
赤で囲んでところがペルシア帝国領イオニア植民地です。

エーゲ海をはさんでギリシアに近かったということもあったでしょう。
この反乱を、ギリシアのアテナイとエレトリアという都市国家が支援します。
これにペルシア側が怒って、ペルシア国王ダレイオス1世が
第1回目にあたるギリシア攻撃を始めたわけです。
しかし、ペルシアから来た艦隊は嵐で大損害を受け、
陸上部隊もマケドニア(ギリシアのすぐ北)で激しい抵抗を受けて、
結局撤収しました。




④ペルシア戦争/マラトンの戦い(紀元前490年)          
紀元前490年、ペルシアのダレイオス1世は、
将軍ダティス率いる600隻からなる大艦隊と陸上部隊を派遣して、
2回目のギリシア遠征を始めました。

ペルシア艦隊はエーゲ海を横断して、
まずイオニア植民地を支援した都市国家エレトリアを攻略しました。
下の地図はアテナイ(アテネ)とエレトリア付近の拡大図です。

その後、ペルシア艦隊はエレトリアから南下し、アテナイの東約40キロの
アッティカ地方のマラトンに上陸しました。
そこから陸上を伝ってアテナイに攻め込もうというわけです。



ペルシア戦争について記録を残したヘロドトスの『歴史』には次のような記述があります。

「さてアッティカ地方ではマラトンが騎兵の行動に最も好都合であり、
かつエレトリアにも至近の位置にあるというので、
ペイシストラトスの子ヒッピアスはペルシア軍をこの場所に誘導したのであった。
これを知ったアテナイ人たちは、彼ら自身も救援のためマラトンに出動した。」
(ヘロドトス『歴史』第5巻、102節、中央公論社版、208頁)

マラトンとアテナイの位置関係は次の地図のようになります。
青い丸がアテナイ(アテネ)、赤いところがマラトンの海岸です。


このマラトンの海岸部分をさらに拡大したのが次の地図です。
ギリシア軍は、アテナイ軍と、やはりギリシアの都市国家プラタイアとの連合軍です。
総指揮官はアテナイの将軍ミルティアデスで、兵力は約1万。
一方、ペルシアの上陸部隊は歩兵11万、騎兵1万。
ただし、ペルシア軍の実数はもっと少なく、歩兵2万と騎兵1000程度だった
とも言われています。
それでも
ペルシア軍は、ギリシア軍の2倍の兵力ですね。


ギリシア(アテナイ-プラタイア)連合軍とペルシア軍は、
およそ5キロの距離をおいて、1週間以上もにらみ合いが続きました。

ペルシア軍の戦列は、中央に縦に分厚い主力精鋭部隊を配置し、
両翼に戦力的に劣る歩兵部隊を置き、長さ約2.5キロにわたって布陣していました。

ギリシア連合軍は、その長さに合わせるようにして布陣しました。
ただし、中央部分は重装歩兵を縦3~5列と薄くして、
左右両翼に通常通りの8~10列の部隊を置きました。
つまり中央部は薄くして、左右両翼側を分厚くしたわけです。
これは敵であるペルシア軍が両側から回り込んできて
包囲されるのを防ぐためだったと言われています。



⑤ペルシア戦争/マラトンの戦い・戦闘開始           
ギリシア軍とペルシア軍は、1週間にらみ合いを続けましたが、
ペルシア側は、これではらちがあかないと考えたのか、沖合に停泊していた艦隊を
海路、アテナイに向かわせようとしました。

この時点で、ギリシア軍とペルシア軍の戦列の間は、およそ1.5キロとなっていました。
ペルシア艦隊がアテナイに向かおうとするのを知って、
紀元前490年8月12日の午前6時、ギリシア軍はペルシア軍に対して攻撃を開始します。



まずギリシア(アテナイ)軍横列が、
1.5キロ先のペルシア軍に向かって前進を開始したのですが、
総重量20キロにもなる装備の重装歩兵が、
なんと途中から
いきなり全速力で走り始めたのです。
ヘロドトスの『歴史』はこの時の様子を次のように伝えています。

「陣立てを終わり、犠牲の占いも吉兆を示したので、
アテナイ軍は進撃の合図とともに駆け足でペルシア軍に向かって突撃した。
[……]ペルシア軍はアテナイ軍が駆け足で迫ってくるのを見て
迎え撃つ態勢を整えていたが、数も少なくそれに騎兵も弓兵もなしに
駆け足で攻撃してくるアテナイ兵を眺めて、
狂気の沙汰だ、まったく自殺的な狂気の沙汰だとののしった。」
(ヘロドトス『歴史』第5巻、111節、中央公論社版、214頁)



ペルシア軍は、騎兵や弓兵の援護もなく自分たちの方に向かって
全速力で走ってくるギリシアの重装歩兵部隊を見て「自殺行為」だと思い、
弓による迎撃を準備しました。しかし弓の攻撃を十分に浴びせる前に、
ギリシア軍がペルシア軍最前列に躍り込んで白兵戦となりました。
中央部での戦いは、兵力に勝るペルシア軍がギリシア軍を押し返しました。

しかし、左右両翼ではギリシア重装歩兵の強力な密集部隊が、
戦力的に劣るペルシア軍両翼を敗走させました。

ギリシア軍の両翼は、敗走するペルシア軍の両翼を深追いせず、
そのままペルシア軍中央の主力の左右から取り囲み、さらに背後にも回り込んで
ペルシア軍を包囲することとなったのです。
結局ペルシア軍は総崩れとなって海に向かって退却し、
艦船に乗ってマラトンから敗走していきました。


このギリシア軍の勝利について、ヘロドトスの『歴史』は次のように述べています。

「戦線の中央部においては[……]ペルシア軍が勝ちを制した。
この方面で勝利を得たペルシア軍は敵を撃破して内陸に追い込んだが、
両翼においては、アテナイ軍とプラタイア軍が勝利を収めた。
しかし勝利を得たアテナイ、プラタイアの両軍は、潰走する敵部隊は逃げるにまかせ、
両翼を合わせて中央を突破した敵軍を攻撃し、かくて勝利はアテナイ軍の制するところとなった。
[……]このマラトンの合戦における戦死者の数は、
ペルシア方が6400、アテナイ方は192であった。」
(ヘロドトス『歴史』第5巻、113・117節、中央公論社版、215-216頁)

ヘロドトスの伝える両軍の戦死者の数を見ても、
このマラトンの戦いが、いかに
ギリシア側の圧倒的勝利であったかが分かります。

ペルシアに対するこの勝利は、すぐさま伝令によってアテナイに伝えられました。
これにちなんで第1回の近代オリンピックではマラトン~アテネを走る競技が行われました。
このマラトン~アテナイの間の距離がちょうど42.195キロだったわけですね。
マラトンの戦いは、後の陸上競技の「マラソン」の由来となったのでした。

(東京マラソン。マラソンは「マラトン」です)

マラトンでペルシア軍を破ったギリシア軍は、すぐに陸路でアテナイに向かい、
アテナイの防備を固めました。
ペルシア軍はその様子を見てアテナイ攻略は不可能と判断し、本国に撤退しました。
この戦いに勝利したことで、ギリシアにおける都市国家アテナイの威信は
大いに高まることになりました。


現在のマラトンの海岸線(グーグルアース・ストリートビュー)。
紀元前490年にここでマラトンの戦いが行われました。

⑤ペルシア戦争/その後の経過                 
紀元前480年、ダレイオス1世の子、クセルクセス1世が、
第3回目のギリシア遠征を企てます。
父親の恨みを晴らさんでおくものか!って感じでしょうか。

数十万とも言われる兵力のペルシア陸上部隊と艦隊が、
エーゲ海北岸沿いに西進してギリシアに侵入しました。

ペルシア陸上部隊は、紀元前480年8月にテルモピュライ(テルモピレー)の戦いで
国王レオニダス率いるスパルタ軍を全滅させます。
映画「300」で有名ですね(ペルシアの兵士をまるでバケモノみたいに
描いていて、これはこれでなかなか問題の多い作品です)。
しかしスパルタ軍は、全滅しながらもペルシア陸上部隊の進撃を
ストップさせることには成功しました。


いろいろ問題のある映画「300」(スリー・ハンドレッド)。
男性ホルモンのかたまりみたいなチョー・マッチョな男たちが登場(笑)。


海上部隊であるペルシア艦隊は、同年9月、サラミスの海戦において、
アテナイを中心とするギリシア連合艦隊によって打ち破られます。
アテナイは強力な海軍を持つ海上国家として、ギリシア世界の覇権を握ることになります。
その後、紀元前444年から430年頃にかけて、都市国家アテナイの国力とその民主政治は、
有名な政治家
ペリクレス(紀元前495頃-429)のもとで全盛期を迎えました。

しかしそれもつかの間、ギリシア都市国家同士の争いが激しくなります。
せっかくペルシア戦争に勝ったのに、内輪もめで混乱したわけです。
紀元前431年からギリシア都市国家同士で戦う「ペロポネソス戦争」が始まり、
こうしてギリシア全体の没落が始まります。

その後、混乱して弱体化したギリシアを征服して、大いに台頭したのが、
ギリシアの北にあったマケドニアという王国です。
ここの国王が、次回取り上げる
アレクサンドロス大王なのです。

 今回は、小コメントやその他の提出物はありません。

次回は4月19日(月)の午前中に、第3回目の授業内容をこのサイトにアップします。
 
http://wars.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。


質問等は、メールで送って下さい。
また小コメントや最終レポートも、やはりメールで送って下さい。
所属学科、学生証番号、氏名、授業名を必ず明記して下さい。
nakagawa@tokai-u.jp



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【今回の授業に関する参考文献】
足利惇氏『世界の歴史・第9巻/ペルシア帝国』講談社、1977年。
伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と衰退』講談社学術文庫、2004年。
伊藤貞夫『古典期アテネの政治と社会』東京大学出版会、1982/1993年。
市川定春『古代ギリシア人の戦争-会戦事典800BC-200BC』新紀元社、2003年。
萩野矢慶記『カラー版・ギリシャを巡る』中公新書、2004年。
川島重成『ギリシア旅行案内・同時代ライブラリー220』岩波書店、1995年。
本村凌二・中村るい『古代地中海世界の歴史』ちくま学芸文庫、2012年。
桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5/ギリシアとローマ』中央公論社、1997年。
周藤芳幸・澤田典子『古代ギリシア遺跡事典』東京堂出版、2004年。
新人物往来社編『ギリシャ神話・神々の愛憎劇と世界の誕生』新人物往来社、2010年。
高野義郎『古代ギリシアの旅-創造の源をたずねて』岩波新書、2002年。
手嶋兼輔『海の文明 ギリシア』講談社選書メチエ、2000年。
馬場恵二『ビジュアル版世界の歴史3/ギリシア・ローマの栄光』講談社、1984/1989年。
村川堅太郎・長谷川博隆・高橋秀『ギリシア・ローマの盛衰-古典古代の市民たち』
                          講談社学術文庫、1993/1996年。
村川堅太郎編『世界の歴史2/ギリシアとローマ』中公文庫、1974/1989年。
『歴史群像アーカイブ/vol.04/西洋戦史 ギリシア・ローマ編』学習研究社、2008年9月。
『歴史読本ワールド22/特集・地中海の歴史と謎』新人物往来社、1994年5月。
アーサー・フェリル『戦争の起源~石器時代からアレクサンドロスにいたる戦争の古代史』
                              河出書房新社、1999年。
オーウェンズ『古代ギリシア・ローマ都市』松原國師訳、国文社、1992年。
ジャック・キャシン-スコット『古代ギリシアとペルシア戦争/500BC-323BC
  東地中海の攻防(オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズ)』
                        柊詩織訳、新紀元社、2001年。
ハリー・サイドボトム『ギリシャ・ローマの戦争』吉村忠典・澤田典子訳、岩波書店、2006年。
ロイド=ジョーンズ編『ギリシア人-その歴史と文化』三浦一郎訳、岩波書店、1981/1996年。
ポール・カートリッジ『古代ギリシア・11の都市が語る歴史』
              橋場弦監修・新井雅代訳、白水社、2011年。
ヘロドトス『歴史』、『世界の名著5・ヘロドトス・トゥキュディデス』所収、
                             中央公論社、1980年。
ロバート・モアコット『地図で読む世界の歴史/古代ギリシア』桜井万里子監修、青木桃子訳、
                                河出書房新社、1998年。
ガリマール社・同朋舎出版編『旅する21世紀ブック・望遠郷13/アテネ』同朋舎出版、1997年。
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