オンライン授業/ヨーロッパの戦争と文明
第24回(7月12日・月曜3限)/第二次世界大戦
(※画像がうまく読み込まれない場合は、再読み込み(画面の更新)をすると表示されると思います)
前回は第一次世界大戦についてでした。今回は第二次世界大戦です。
この第二次世界大戦については、少し長い年表を付けておきます。
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【年表】(ヨーロッパ戦線のみ)
1918年 第1次世界大戦終結。
1919年 パリ講和会議(1月)、ヴェルサイユ条約締結(6月28日)。
1920年 国際連盟創設(1月)。
1929年 世界恐慌始まる(10月24日、アメリカのウォール街での株価暴落)。
1933年 ナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)党首アドルフ・ヒトラー、ドイツ首相となる。
ドイツ、国際連盟脱退(10月)。
1934年 ヒトラー、ドイツ総統となる(ドイツ第3帝国)。
1935年 ドイツ、再軍備宣言(3月)。
イタリア、エティオピア侵略開始(10月)。
1937年 ドイツ・イタリア・日本の三国防共協定成立。
1938年 ドイツ、オーストリアを併合(3月)。
ドイツ、チェコスロヴァキアのズデーテン地方を併合(9月、ミュンヘン会談にて)
1939年 ドイツ、ポーランドに侵攻(9月1日)。第2次世界大戦開始。
ソ連、ポーランドに侵攻(9月)
1940年 ドイツ、オランダ・ベルギーに侵攻(5月10日)。両国はドイツに降伏。
ドイツ、マジノ線を迂回してフランスに侵攻(5月10日)。
英仏両軍兵士のダンケルクの撤退作戦(5月26日~6月4日)
ドイツ軍、パリに無血入城(6月14日)。
フランス、ドイツに降伏(6月17日)、コンピエーニュで休戦協定(6月22日)。
ペタン元帥首班のヴィシー政権成立。
1941年 ドイツ、ソ連への攻撃開始(6月22日)。
日本軍、アメリカのハワイ真珠湾攻撃(12月8日)。太平洋戦争始まる。
1944年 連合軍によるノルマンディー上陸作戦(6月6日)。
オラドゥールの虐殺事件(6月10日)。
1944年 連合軍、パリを解放(8月25日)。
1945年 米・英・ソ連の三首脳によるヤルタ会談(2月)。戦後処理などを話し合う。
1945年 ベルリンでヒトラー自殺(4月30日)。
ベルリン陥落(5月2日)。ドイツ無条件降伏(5月7日)。
1945年 広島に原爆投下(8月6日)。長崎に原爆投下(8月9日)。
ソ連が日本に宣戦布告(8月8日)。
日本、無条件降伏(8月14日)。降伏文書調印(9月2日)。第2次世界大戦終結。
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第二次世界大戦については、語るべきことがたくさんあり過ぎて、
どれを採り上げればいいか迷うほどです。
ヒトラーとナチスドイツのホロコーストなども無視は出来ません。
しかしそうしたことをすべて採り上げると、それだけで1年くらいかかってしまいます。
ですので、ここは思い切って、最初と最後について採り上げることにします。
最初というのは、第二次世界大戦の背景および初戦である
ドイツによる電撃的なフランス侵攻について。
最後は戦争末期のノルマンディー上陸作戦の直後に起こった
「オラドゥールの悲劇」(虐殺事件)です。
1.背景
第一次世界大戦で敗北したドイツには、軍備削減、領土縮小、そして重い賠償が課せられ、
ドイツ国民には不満が積もっていきます。
1923年のハイパーインフレーション(↓下の写真)による経済の混乱などが発生し、
さらにそこに世界恐慌(1929年)による深刻な経済危機に襲われ、
ドイツの社会不安は著しく増大しました。

1923年のハイパーインフレーション アドルフ・ヒトラー(1889-1945)
パン1個が1,000,000,000,000(1兆)マルクとかになった。
人々は札束を荷車に積んでパンを買いに行った。
薪の代わりに札束をストーブで燃やす人もいた。
そのような時に、ドイツ国民の不満や不安をよく吸収したのがヒトラー率いるナチス党でした。
ナチスは公共事業・軍需工業を拡大することで失業問題を克服しますが、
その一方で、言論統制を強化し、ドイツ国民の不満や不安をユダヤ人に向けさせ、
ユダヤ人に対する組織的な迫害を行いました。
こうしてドイツにおいてファシズム(全体主義)が拡大してゆきます。
ナチスは軍備増強を続け、かつての領土的な野心を復活させ、
そして再び大帝国建設を目指そうとしました(第三帝国)。
イギリスやフランスなどは、最初のうちは、ドイツに対して宥和政策をとり、
またソ連はポーランドへの野心もあって、
周辺の国々はドイツの国力拡大を止めることが出来ませんでした。
1938年にオーストリアを併合したドイツは、
チェコスロヴァキアのズデーテン地方獲得に動き、
さらに1939年3月にチェコスロヴァキアを解体、
1939年8月23日にソ連と独ソ不可侵条約を締結すると、
1939年9月1日、宣戦布告することなくいきなりポーランドに侵攻して、
ここに第二次世界大戦が始まったのです。
ポーランドはドイツとソ連の間で分割されました。
この時点での勢力地図は次の通りです。
(この地図では、英仏が赤、ドイツ・イタリアが青、ソ連がグリーンです。)

ポーランド作戦を終えたドイツは、西欧諸国に和平提案を行いますが、
イギリスやフランスはこれを拒否したため、
1940年5月10日、ドイツはまるで第一次世界大戦の時と同じように、
西部戦線においてオランダ・ベルギーに対して、
さらにフランスに対して攻撃を開始することになります。
2.フランス侵攻作戦
ドイツは当初、第一次世界大戦の時と同じように「シュリーフェン・プラン」に従って
オランダ・ベルギーを通過したあと、フランスに向けて侵攻する計画でした。
フランス側もそれを予想して、ドイツとの国境沿いに
「マジノ線」という要塞ラインを建設しました。
第一次世界大戦の「塹壕戦」の苦い記憶と反省から、徹底的な防御ラインを構築したのです。
北はフランス・ベルギー・ルクセンブルク三国の国境にあたるロンヴィからスイス国境まで。
また南フランスとイタリア国境にも造られました。
北のマジノ線は次の地図の通り(青い線)です。黄色は国境線です。
この「マジノ線」は、一定間隔で強固な要塞や砲郭、トーチカなどを連続的に並べた要塞線で、
当時の最新建築技術を駆使して建造されました。
鉄骨とコンクリートで作られた各要塞の間は地下道で結ばれ、
レールを敷いて兵員や物資を運搬できました。
地上には隠ぺい型の砲塔や射撃装置、機関銃座などが設置されました。
また地下兵舎も用意されていました
コンクリート製の砲郭 隠ぺい型の射撃装置
マジノ線の地下道 地下兵舎
マジノ線は1936年にとりあえず完成します。
フランス軍はこれをドイツに対する難攻不落の防衛ラインと考えました。
「さぁドイツ軍、来るなら来いや」みたいな感じですね。
フランスは、ドイツ軍がこの鉄壁のマジノ線をそう簡単には越えられないだうと考えました。
さらにマジノ線からすぐ北の「アルデンヌの森」についても、
樹木が多く、地形も平坦ではなく、ドイツ軍がこの森林地帯を
簡単に通り抜けることは出来ないだろうと考えます。
そういうわけで、第一次世界大戦の時と同じく、
ドイツ軍がオランダとベルギーを通過してフランス北部に攻め込んでくるのが
一番可能性としてありそうだと判断し、主力をベルギー国境に沿って配置します(下の地図の青い■)。

一方、ドイツ軍は、いわゆるA軍集団、B軍集団、C軍集団が、
フランス・ベルギー国境に集結します(上の地図の赤いA、B、C)。
最大のポイントは、この中の、中央にいるA軍集団でした。
45個師団からなり、そのうち7個は機甲師団(装甲師団)でした。
機甲師団とは、戦車部隊を中心に装甲車、輸送車などを備えた自動車化・機械化された歩兵部隊です。
そしてドイツの戦車部隊は、およそ通過不可能であろうと思われた「アルデンヌの森」を
いとも簡単に、あっという間に突破してしまったのです。
さらに言うと、フランスのマジノ線は、確かに陸上からの攻撃には
鉄壁の防御ラインと思われていましたが、実際にはドイツ軍の攻撃能力の方が勝り、
しかも空挺部隊が空からやすやすとマジノ線を越えたのでした。

アルデンヌの森を突破したドイツのA軍集団は、
そのまま反時計回りに右旋回してベルギー国境ぞいに展開していた
フランス軍主力の背後に回り込みます。
そして同じくフランス北部ベルギー国境沿いにいたイギリス軍ともども、北へ追い込み、
英仏海峡沿いのダンケルクの中に閉じ込めてしまったのでした。
1940年5月末、イギリス・フランス連合軍将兵34万は、大規模な海上輸送によって、
命からがら海を渡ってイギリスに逃れたのでした(ダンケルクの戦い)。

1940年6月13日、パリがドイツ軍によって占領、22日、
ドイツとの間で休戦協定を結び、フランスは降伏しました。
フランスは北半分がドイツの占領下に置かれ、
南部は第一次世界大戦の英雄ペタン元帥が首班となって
ヴィシー政権が管理しました(↓下の地図)。
もちろんドイツの傀儡(かいらい)政権です。

北の赤い部分がドイツ占領地域、南の青い部分がヴィシー政権管理地域。 占領したパリに入ったヒトラー
(Wikipediaより作成)
3.オラドゥールの悲劇(1944年6月10日)
さて、次はいきなり第二次世界大戦末期の話になります。
ドイツは対戦初期は、東欧に領土を拡張し、フランスを降伏させるなど勝利を重ねました。
しかし1941年にナポレオンと同じようにロシア(ソ連)に侵攻し、
1943年2月にはスターリングラード攻防戦で歴史的敗北、
5月には北アフリカ戦線で敗北を重ねます。
1943年にはイタリアが連合軍に降伏、1944年1月にはソ連のレニングラード攻防戦で
やはりドイツ軍が敗北します。
勢いに乗る連合軍は、1944年6月6日、ドイツ占領下の北フランス・ノルマンディーに
17万もの兵士を上陸させる有名な「ノルマンディー上陸作戦」を決行します。
いわゆる「史上最大の作戦」と言われる軍事作戦ですね。
ノルマンディーでは最終的に200万とも言われる兵員がフランスに上陸し、
1944年8月、パリが解放され、9月にはフランスからドイツ軍が駆逐されました。
最終的に1945年4月30日、ヒトラーがベルリンの地下壕で自殺し、
5月にドイツは無条件降伏しました。
さて、西ヨーロッパ地域における連合軍のドイツ軍に対する反攻の大々的な開始となった
「ノルマンディー上陸作戦」が行われた1944年6月6日の、わずか4日後の6月10日、
フランス中部の「オラドゥール村」で大事件が起こります。
ナチス・ドイツの武装親衛隊(SS)によって、
村の住民のほぼ全員にあたる642名が虐殺されたのでした。

オラドゥール村(あるいは街)は、フランス中西部のオート=ヴィエンヌ県にあり、
正式にはオラドゥール=シュル=グラヌ(Oradour-sur-Glane)といいます。
第二次世界大戦末期には、ドイツ軍に対するレジスタンスがこの地域でも活発でした。
ノルマンディー上陸作戦が行われた時、オラドゥールの南東約25キロのリモージュという街
にちょうど駐留していたナチス・ドイツの武装親衛隊(第2SS装甲師団ダス・ライヒ)は、
援軍としてノルマンディー方面への移動と、レジスタンスの撲滅を命じられます。
そこで、この部隊はノルマンディーに向かう途中でオラドゥールに寄り、
ここのレジスタンスを潰すことにしました。
この「ダス・ライヒ師団」(〈祖国〉師団)は、今でも別名「死の部隊」と呼ばれています。

「死の部隊」こと「ダス・ライヒ師団」 第一大隊指揮官のディークマン少佐
しかしレジスタンスは、軍服を着ているわけでもなく、普通の住民の中に紛れ込んでいます。
また、オラドゥールの村の住民がレジスタンスをかくまっているとか、
レジスタンスの武器をこの村が隠しているといった事前の情報もありました(これらはでっち上げ)。
こうしたことから、「ダス・ライヒ師団」は、
オラドゥールの村を住民ごと全部抹殺することにしたのです。

かつてのオラドゥール。路面電車も走っている。 村の広場。平和なひととき。
(oradour-souviens-toi.com)
1944年6月10日、「ダス・ライヒ師団」のうちのアドルフ・ディークマン少佐率いる第一大隊が、
オラドゥールの村に到着し、全住民を、村の中央にある広場(↑上の写真)に集めました。
そしてそのうちまず男たち(14歳以上)を6つの納屋に連行し、
そこに閉じ込めたうえでほぼ全員197名を機関銃で射殺しました(かろうじて逃れたのは5名)。
次に女と子供が教会に閉じ込められ、放火され、銃撃されました。
女240名、子供205名が殺されました(女性1名だけが逃れました)。
こうしてほぼ全住民にあたる642名がドイツ軍によって殺されたのでした。
そしてその日の夜までに、村は徹底的に破壊されました。

オラドゥールのメインストリート(2009.8.23)


オラドゥールの教会。この中で445名の女と子供が殺された。

教会の祭壇はボロボロ。 事件直後の教会内部
村の北には、オラドゥールで虐殺された村人たちの墓地があります。
ドイツ軍に虐殺された642名の名前が刻まれた記念碑が作られています。

フランス人は今でも墓石に亡くなった人の顔写真などをパネルにして貼り付けます。
オラドゥールの墓地のそれは、悲劇の思い出を今に生々しく伝えるものとなっています。

姉アメリと妹マルグリットの墓碑。 この家族は祖父・祖母、母、男の子、女の子、一家全滅。
「1944年6月10日、ナチの蛮行によって殺された」とある。

オラドゥールの幼稚園の子供たち(左)と、女子小学校の生徒たち(右)。正確な撮影年は不明だが、悲劇の少し前頃か。
さて、戦後1953年からこの虐殺を審理する
軍事法廷がボルドーで開かれ、世間の注目を浴びます。
しかし直接の指揮官であるアドルフ・ディークマン少佐は、
オラドゥールの虐殺の後、ノルマンディーですでに戦死していました。
さらに問題であったのは、虐殺を行った部隊の多くの兵士が、
フランスのアルザス出身だったことでした。
彼らアルザス人兵士は「自分たちはアルザスを占領したドイツ軍に
無理矢理に徴兵されて、ただ命令に従っただけなのだ」と主張しました。
戦後、ドイツからフランス領に戻ったアルザス地方を刺激することを恐れて
宥和政策を進めていたフランス政府は、被告の元兵士たちに有罪判決を下すも、
すぐに恩赦という形で全員を釈放してしまいました。
なんとも後味の悪い、と言うか収まりどころの悪い結末です。

オラドゥール事件を審理するボルドーの軍事法廷
しかも、ナチスの親衛隊「ダス・ライヒ師団」の司令官であった
ハインツ・ラマーディング中将は、戦後はドイツのデュッセルドルフで
建築業者として成功を収め、引退後は平和に暮らして1971年に亡くなりました。
さまざまな法律的な壁によって、彼が起訴されることは結局一度もありませんでした。
これもまた非常に後味の悪い結末です。
いつの時代も、どこの社会でも、戦争で悲惨な目にあうのは、
末端の兵士や一般の庶民・民衆です。
国家を率いる者たち、上から命令を下す者たちの多くは、
往々にして下の人々に犠牲を強いながら、最後は結局責任を逃れてのうのうと
甘い汁を吸ったり生き続けたりします。
あ、これは戦争だけの話ではないですね。
今の世の中、政治やお役所や企業の世界でも、しばしば見られることです。
下にいる者は、そうしたことをよく見て、決して簡単にはダマされないようにすることが
とても大切であると思います。
上で支配する者たちは、実に巧妙に振る舞い、いかにも正論をぶち上げながら、
人々をたき付け、あおり立て、したたかにこちらをだまして動かそうとしてきます。
そうしたことを、しっかりと見極め、批判的にとらえ、
決して簡単には乗せられないことが肝心です。
要は、他人の言うことを簡単に鵜呑みにせず、何事もしっかりと自分の目で見て、
自分の頭でよく考え、判断することです。
本当にそうなのだろうか、実は違うのではないだろうか、という気構えで、
常に物事を見ていくことが大切です。
最後はちょっと抽象的な話になってしまいましたが、
今回は以上で終了です。
| 今回は、小レポートやその他の提出物はありません。 |
※次の第25回が終わったところで最終レポートがあります。
| 次回は、7月15日(木)の午前中(11~12時頃)に、第25回目の授業内容を このサイトにアップします。 http://wars.nn-provence.com/ にアクセスして下さい。 |
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【本日の授業の参考文献】
『歴史群像/No.18/総力特集:ドイツ第三帝国の終焉』学習研究社、1995年4月号。
柏木明『フランス解放戦争史-第二次大戦~植民地戦争~現代』原書房、1995年。
田野大輔・柳原伸洋編著『教養のドイツ現代史』ミネルヴァ書房、2016年。
田村尚也「戦術入門・機甲編その3/機甲師団」『歴史群像』第59号、学習研究社、2003年6月。
内堀稔子・吉田一法『失われた土曜日-1944年6月10日虐殺の村オラドゥール』透土社、1991年。
三宅正樹ほか編著『ドイツ史と戦争-「軍事史」と「戦争史」』彩流社、2011年。
渡辺和行『ナチ占領下のフランス-沈黙・抵抗・協力』講談社選書メチエ、1994年。
J. キャンベル『20世紀の歴史15/第2次世界大戦[上]戦火の舞台』
入江昭監修、小林章夫監訳、平凡社、1990年。
J. キャンベル『20世紀の歴史16/第2次世界大戦[下]暮らしの中の総力戦』
入江昭監修、小林章夫監訳、平凡社、1990年。
ジャン-ポール・サルトル『奇妙な戦争-戦中日記』海老沢武ほか訳、人文書院、1985年。
ロビン・マックネス『オラドゥール-大虐殺の謎』宮下嶺夫訳、小学館文庫、1998年。
ジョン・ピムロット『地図で読む世界の歴史・第二次世界大戦』田川憲二郎・牧人舎訳、2000年。
BAURY, Michel, Oradour-Sur-Glane : Le récit d'un survivant, Éditions Privat, 2018.
BAURY, Michel, et al., Oradour-sur-Glane - Faits générateurs du massacre,
Jourdan Editions, 2018.
CALVO, Bruno, Oradour-sur-Glane:Samedi 10 juin 1944, Elytel Editions, 2015.
LECOUTURIER, Yves, The Beaches of The D-Day Landings, Ouest-France, 1999.
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質問等は、メールで送って下さい。
また小コメントや最終レポートも、やはりメールで送って下さい。
nakagawa@tokai-u.jp
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